ウィグライプロ
スペシャル
第1回
森岡紘一朗
“2度目の成功”の法則
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A“長距離型”で2度目の世界挑戦
@失格の心配がないフォーム
●2度目の世界選手権の明暗
2005年のヘルシンキ世界選手権20kmWは1時間27分08秒で29位。日本人3選手のなかでも3番目だった。「自分を見失っていた点が多かった」と話している。インターハイほどではないにしても、それと似た状況に陥ってしまった。
しかし、直後のユニバーシアードでは3位。翌2006年は日本選手権優勝、ワールドカップ競歩31位、アジア大会3位。そして2007年の日本選手権優勝、ユニバーシアード3位と経験を積み、同年大阪で行われた世界選手権では11位(1時間24分46秒)と健闘した。
森岡 ヘルシンキは世界レベルというのがどういうものか、どう対応すればいいのかまったくわからず、タイムも順位も不本意でした。その点、大阪では入賞を狙えると思っていました。(トップは少し前にいたが)15kmまで集団で行きましたが、そこからペースが上がったところがきつかったですね。18kmでは太腿が痙攣してしまって…。課題だった筋力不足が、もろに出てしまいました。給水などでペースが上がったときの動きに問題があったのだと思います。上半身が力んでしまって無駄な動きが多くなってしまう。スピードを出しても余裕のある動きをしたいと思っていました。
2度目の世界選手権は後ろから追い上げるレースではなく、集団で終盤までレースを進めることができた。世界選手権においても“2度目”で成長した姿を見せた。その一方で、今も今村コーチが課題という「力強さ」の不足が勝負所で露呈した。森岡自身も「収穫はあったが、チャンスを生かせなかった」と悔しさをにじませた。
国際大会の成績を中心に振り返ってきたが、学生時代は「インカレありき」の競技生活でもあった。関東インカレ、日本インカレとも2年時から3連勝(順大は競歩選手の層が厚く、1年時の日本インカレは3人の代表枠に入れなかった)。短い距離のスピードを養成することもできた。その間に国際大会を多く経験し、2回目の世界選手権で進歩を示すことができたのは大きかった。
その間、国内レースでも国際大会でも、歩型違反の失格はゼロだった。
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6月20日にラコルーニャで行われた国際グランプリ20kmWに出場したが1時間28分27秒で25位。3km付近までは先頭集団に日本選手でただ1人つけていたが、中盤からペースダウン。ハイペースで入ったときの課題が明確になった<競技写真提供:今村文男コーチ> |
森岡 学生時代の5000mや1万mのレースは、スピードに任せて突っ込むことができましたが、後半で動きが崩れることも多かったんです。でも、それはジャッジに関わる崩れではなく、効率的に歩くための動きの崩れ方でした。左右のブレだったり腕振りが肩の近くに上がってきてしまったり。学生時代に注意を受けたのは、僕の記憶では岡山国体(2005年)で1回あっただけです。
そして、大阪世界選手権を終えた森岡は、翌2008年1月の日本選手権こそ50kmWの第一人者の山崎勇喜(長谷川体育施設)に敗れて2位だったが、3月の全日本競歩能美大会に優勝して北京五輪代表を決め、学生時代を締めくくった。
●大阪よりも順位を落とした北京五輪だが
森岡は2008年4月、今村コーチの指導を引き続き受けられる富士通に入社。すぐにトラックで自己新を連発した。5月の東日本実業団5000mWで19分38秒31、6月のホクレンDistance Challenge札幌大会5000mWで19分28秒26、4日後のホクレンDistance Challenge士別大会1万mWで39分32秒08。学生時代と同じようにスピードを養成したかに見えたが、実際にはアプローチ法が違っていた。
森岡 毎年、細かいところで変えてきたことはありましたが、富士通に入ってからの変更が大きかったですね。学生時代は1万mWも意識した20kmWで、言ってみれば“中距離型”の歩きでした。トラックの距離なら勢いだけで押し切るような歩き方です。でも、それでは20kmWの後半に苦しくなって動きが崩れてしまう。国際大会を経験しているなかで「このままでは置いて行かれてしまう」と危惧を感じるようになりました。
そこで考えたのが“長距離型”への変更でした。実業団に入って世界大会を見据えた上でのトレーニングを継続できるようになりましたし。100%の絶対的なスピードなら、学生後半の頃の方が速かったかもしれませんが、90%のスピードで持続させる力は、今の方があります。1万mWの自己新が今年(2009年)も出ていますから、動きも年々改善してきて、絶対的なスピードの部分をカバーできているのかもしれません。
今村コーチも「学生時代の前半は補強や動きづくりにプラスして、動きの連続性に主眼を置いた持久歩が中心でした」という。それが学生時代の後半になると、「それにプラスして強度を求めるようになりました。ロングインターバルなど反復練習が多くなりました」と言う。
競歩を始めた高校時代が第1段階とするなら、今村コーチと出会ってからの変化が第2段階。そして、“長距離型”への変更が第3段階と言えた。
新しい試みが上手く進んでいる手応えがあったのが、北京五輪前のホクレンDistance Challengeの頃からだったという。90%のスピードを持続させるということは、出力を抑えながらもスピードを維持するということ。動きにも工夫を加える必要があったが、新しい動きとスピードが噛み合う感覚をつかめた。
しかし、北京五輪は16位と、前年の世界選手権よりも順位を落としてしまった。銅メダル選手とのタイム差は両大会とも2分強で、ほとんど変わっていない。
森岡 メダルを狙うグループが15kmからボーンと行って、あとは等間隔で追っていく集団や選手がいるという展開は同じなんですが、そこにいる選手の数が違いました。北京五輪は中間層が濃くなってきたという印象です。でも、自分自身の歩きの内容としては、大阪よりも北京五輪の方が出し切った感じを持っています。どちらも攻めた結果で入賞を逃しています。15km以降はどちらも、本当に苦しかった。でも、大阪のときは終盤で痙攣を起こしてしまいましたが、北京では歩ききったと思っています。長距離型に変えたことで、今は後半の苦しい部分でも、ある程度のレベルを維持できるようになりました。
●50kmW進出の意味
北京五輪後に森岡は、将来的な部分も見据えて初50kmWに出場した。2008年10月の全日本競歩高畠大会で3時間55分40秒で3位。20kmWのときと同様、もう少し上の記録を期待する向きもあった。
しかし、今年1月の日本選手権20kmWは1時間21分16秒の自己新で優勝。世界選手権ベルリン大会の代表を決めた。「日本記録(1時間19分29秒)のペースでも行ける自信はあった」というのがレース後の感想。スピードもしっかりと向上させていた。
森岡 長距離型に変えたときから、いつかは50kmWにも出る流れになると思っていました。ただ、最初の50kmWはやはり、手探り状態でした。長い距離への苦手意識もあって、4時間が切れるか自信がありませんでした。練習はそれなりに積んでいたのですが、実際に結果を出してみないと本当の自信にはなりません。可能性としてどうなのか、と。
森岡(5)にとって2度目の50kmWとなった今年4月
の日本選手権。5km毎を23分弱のペースを保ち、
3時間49分12秒でA標準を突破した |
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しかし、4月の日本選手権50kmWで山崎に続いて2位に。3時間49分12秒とA標準を突破し、2種目でベルリン世界選手権に出場することになった。ただ、50kmWの国内レースには出場しても、国際大会での挑戦は20kmWで入賞を果たしてから、と思っていた関係者も多かった。その予想を覆しての世界選手権での50kmW出場である。
森岡 以前は「自分には20kmWしかない」「20kmWで世界と戦うことが自分の役目」と考えたりしていました。自分への意識付けという部分もありましたね。でも、世界を目指すことが一番の目標ですから、そのなかで50kmWも選択肢の1つになると考え始めました。マラソンと1万mでは難しいかもしれませんが、20kmWと50kmWなら両立は可能です。競歩はどちらかの脚を地面につけて競技をする種目。滞空時間に差が生じる走る種目よりも、両立しやすいはずです。幸い、ベルリンでは専門の20kmWが先に行われますし。
大阪ではあと一歩のところで入賞ができませんでした。その一歩を縮めるのが目標ですが、あまり意識しすぎると硬くなります。20kmWも50kmWも、そのときの自分の力を出し切るという気持ちで臨みたいと思います。正直、2種目出場に不安も感じますが、今村コーチが世界選手権7大会連続代表という経験を持ってらっしゃいます。アドバイスを参考に、一日一日、練習を積み重ねていきます。
20kmWも50kmWも、2回目のレースでタイムを一気に伸ばした。世界選手権も2度目の大阪大会で、順位もレース内容も大きな進歩を示した。その森岡が“長距離型”に自身を変えて最初に臨んだのが北京五輪だった。ベルリン世界選手権は、新しいコンセプトでの2度目の世界大会ということになるし、“長距離型”に変えた延長線上の位置づけで50kmWにも挑戦する。どういう形で結果を示してくれるのか、我々も楽しみにしてベルリンを待ちたい。
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