陸上競技マガジン2004年10月号
女子5選手の初五輪
森千夏ほか
伝統はアテネから始まる


 アテネ五輪の特徴の1つとして、伝統のない種目で出場を果たした選手が多いことが挙げられる。全部が女子種目。前回のシドニーから実施されている棒高跳とハンマー投が初出場で、800 m・砲丸投・混成競技(七種競技)が40年ぶり(これには、地元開催だった1964年東京大会に、通常より多くの選手団を送り込んだという事情もある)。21世紀最初のオリンピックに歴史を刻んだ5人の女子選手。その戦いから得られたものは何だったのか。

「オリンピックだったから、なのかもしれません」
 中田有紀(栄クリニック)は走幅跳の3回目をこう振り返った。日本選手権も同じように2回連続ファウルで後がなかったが、3回目に6m41(+2.9)と大ジャンプを見せた。しかし、アテネでは天を仰ぐような表情で着地。踏み切った瞬間に感触の違いでファウルとわかった。帰国後に、アテネでの失敗を次のように分析した。
「日本選手権と同じように、3回目も助走は思い切り行ったのですが…。いつもなら修正できるところが、修正できなかったんだと思います。興奮の中にも冷静さが必要なんですが、アテネでは“行け行け”ばかりでした」
 日本の混成競技選手としては、東京五輪以来40年ぶりのオリンピック出場だった。最初の100 mHは13秒94。もう少し上の記録を狙っていたが、決して悪い記録ではない。2種目目の走高跳では1m76の自己タイに成功した。
「オリンピックだからと緊張しすぎることもなく、力を出し切れる手応えもありました。しかし、砲丸投の1回目に失敗(10m56)すると、そのまま立て直せませんでした」
 3回目に11m54まで盛り返してたが(自己記録は12m04)、外国勢にメンタル的に圧倒されてしまったという。
「周りに集中力の高い選手がいることで、自分が集中できなくなってしまいました。1回目に失敗したと思える選手でも、必ず2回目、3回目に修正してくる。走高跳までは自分のことで精一杯でしたが、一緒に競技をしているうちに、周りの集中力のすごさを肌で感じ始めてしまったんです」
 初日最後の200 mは25秒76。自分では25秒前後と感じた動きができただけに、その差の大きさに愕然とした。迎えた2日目。最初の走幅跳は気持ちの面も含め「ここで切り換えるしかない」と意気込みすぎたかもしれないという。次のやり投は去年痛めたひじの影響でタイミングが取りづらくなっていて、その部分が克服できなかった。だが、中田の気持ちは最後まで切れることなく、7種目めの800 mは2分18秒46と自己記録に0.29秒差と迫った。
 頑張りはした。が、4871点で最下位(28位)という結果は、厳然と突きつけられる。
「自分の思っていた七種競技と、まったく違うと思い知らされました。本当に強くならないと、あの中には入れない。今と同じ力で行ったらダメです」
 来年のヘルシンキ世界選手権に対しては、帰国後間もないということもあり、まだ、気持ちが整理できていない。
「(国際舞台へ)行きたいと言うのは簡単ですが、心底行きたいと思うには(練習面も含め)相当の覚悟が必要です。もう1回、あの場で戦いたい気持ちはありますが、やるぞ、というところまでは切り換えられていません。それだけ、アテネは衝撃的でした」
 “覚悟が必要”と、中田は繰り返した。日本の混成競技全体が世界で戦うためにも、生半可でない頑張りが必要ということか。
        ◇
 杉森美保(京セラ)はいつもと同じようにトップに立ったが、200 m通過時点で「いつもと違う」と感じていた。
「インフィールドのタイマーを見たら27秒台。気持ちよく走ってそのタイムなら問題ないのですが、無理な力を使ってしまってました。400 mまでは、ものすごく気を遣った走りになりましたね。600 mで他の選手と余裕が違うことがわかりました」
 400 mは58秒2、600 mは1分29秒5。600 m直前まではトップだったが、あとは抜かれる一方。7人中6位で予選通過はならなかった。
 しかし、2分02秒82は国外日本人最高記録であるし、トップを走る自分のスタイルを貫いた。まったく力を発揮できなかったわけではない。
「外国選手のラストの200 mは、どんなに遅くても30秒を切ってきます。後ろについて行ったら、そこで離されるだけですからね。それと、どうしても1分台を出したかったので、自分でペースを作ろうと先頭に立ちました。でも、走り始めたら並ばれないようにとか、無理矢理でも前に行かないと出られそうにないとか、色々と考えてしまいました。そういうことは初めてです。レベルの高いなかでは力を使わないといけないのは確かですが、それに対応する力がありませんでした。頭の中では予想していたことでも、実際に走って初めてわかったことですね」
 確かに、世界の壁は厚く、40年間のブランクは、そう簡単に埋められなかった。それでも、杉森は簡単にあきらめない。昨年の腰の手術から、ずっと支えてくれる人たちがいる。大森国男監督も、1分台を出すためのメニューを必死で考えてくれている。挑戦する意欲は、より高くなった。
「もっといろいろと経験して、もっとトレーニングしていったら、戦える種目だと思います。1分台にもこだわって、まだまだ800 mを追求していきます。1分台を出せればまた、世界も変わってくると思うんです」
 1分台の力を付ければ、最初の200 mでストレスを感じることなく走れるようになるだろう。スローペースなら、ラストの200 mで30秒を切れるようにもなるのではないか。
        ◇
 シドニー五輪から実施されている女子棒高跳。日本人初代表の近藤高代(長谷川体育施設)だったが、4m15で予選全体で32位。出発前に大腿前面を痛め、跳躍練習がほとんどできていなかったのが原因だった。
「試合当日になってようやく走れてきましたが、突っ込みと踏み切りのタイミングをつかみ切れませんでした。ポールの硬さや握りの高さも、ベストではなかったですね」
 絶好調だったら世界の壁を感じたかもしれないが、不調の原因がはっきりしていただけに、まだまだ戦えると感じることができた。3位は4m70とハイレベルだったが、6位は4m40で、「お手上げでは決してない」と思えたのだ。何より、これまでは聞いていただけの“世界一を決める試合”の雰囲気を、肌で感じ取ることができた。
「あの大観衆のなかで、テレビでしか見たことのない選手と一緒に試合ができたことが、ものすごく楽しかったんです。初めて経験する興奮で、期待以上のものでしたね。オリンピックが終わってから、感動が日増しに大きくなってきています。本当に、出られてよかった。そしてもう一度、あのピットに立ちたい。今度は悔しい思いをするのでなく、予選を必ず突破したい。挑戦したい気持ちで一杯なんです」
 今は未発表の、来年の世界選手権の標準記録が気になっている。A標準を日本選手が何人も跳んで、2人以上で出たい気持ちもあるし、何度もA標準を出すことで、決勝進出や入賞の可能性が広がるからだ。
        ◇
 森千夏(スズキ)はまさかという記録、15m86で予選全体で31位に終わった。女子砲丸投選手として初めて出場した昨年の世界選手権も、力は出し切れなかった。それでも、16m86と今回よりちょうど1mよかった。昨年の世界選手権は決勝進出や入賞と、自分の力よりも上を見すぎて失敗した。今年はその反省から、自分の足元を見つめ、力を出し切る考え方に改めた。それでも結果を残せなかった森の悔しさは、想像に難くない。
「力を出し切れなかった自分が、本当に悔しいです。この気持ちを忘れずに、もう一度下からはい上がるつもりでやり直します。いい経験になりました。次に何をやるべきかがわかりました。今度こそ、自分に勝ちたい」
 本人は不調の理由をいっさい話さなかったし、青山利春コーチ(国士大監督)も「自分の責任」と繰り返したが、森は帰国後に入院した。現地でも相当に体調が悪かったのは間違いない。
「オリンピックの雰囲気を経験したことが、必ず次につながります。北京では19mを投げて入賞してほしい」と、青山コーチが話すように、体調不良を押して出場したことが、絶対に次につながると信じたい。
        ◇
「残念だったね、と帰国して言われることもありますが、自分のなかでは“残念ではない”記録でした」
 これもシドニー五輪から採用された女子ハンマー投。日本人として初めて出場した室伏由佳(ミズノ)は、65m33(予選全体で27番目)の記録をこのように評価した。国外日本人最高記録でもあるが、表面的な数字というより、自身の動きが合格点を与えられるものだったから評価できる、という話しぶりだ。
「1投目はしっかり記録を残して(65m33)、2投目は慎重に行くかダイナミックに行くか、迷っているヒマもなく、冒険してみました(左のゲージにぶつけるファウル)。3投目はテクニックとタイミングが合いそうでしたが、一瞬、動きが乱れてしまいました(63m42)。でも、(全体的に)緊張しないで、今やろうとしている技術が集中してできたと思います」
 かつては室伏の弱点でもあった精神面の弱さが出ず、技術的にも次につながるものがあったのが、その表情を明るくしている。
「オリンピックに出ているぞ、ではなく“試合に出ている”という感覚で臨めました。マイペースで自分のやるべきことができたので、自分の中では成功でした。オリンピックに出て、そこがゴールになるのでなく、そこからまた向上するためにやることがいっぱいある。さらにハンマー投が好きになれました。それが収穫です。私の中ではもう、“来年”が始まっています」
 ただ、今回はまだ、プレッシャーのかからないポジションだったのも事実。予選通過記録は68m27と、室伏の日本記録を上回る数字だった。
「言ってみれば、人との勝負でなく、自分との勝負でした。これが決勝に進んだり、メダルを狙うような位置になると、自分のペースを乱す要素が多くなるんです」
 そのレベルに達したときが、本当の勝負なのかもしれない。
        ◇
 日本選手が初出場だった種目と、40年ぶりに出場した5種目。中田のように世界の壁は「衝撃的で、自分が集中できなくなった」と言う選手もいれば、室伏のように「自分のやるべきことができた」と言う選手もいる。5人が経験したことは技術的にも精神的にも、極めて個人的な体験で他者が完璧に学習することなどできない。しかし、結果の良し悪しにかかわらず、彼女たちが日本の陸上競技史に、新たな一歩を印したのは紛れもない事実である。
「棒高跳がますます面白くなりました。これでまた、婚期が遅れてしまいますね」と、ある意味、経験者にだけ許される贅沢なコメントをした近藤の、次の言葉で締めくくりたい。
「歴史の第一ページになれたのはよかったのですが、もっとインパクトのある歴史を作りたかった。(代表第一号という)“一発屋”で終わらずに今後も自分が頑張ることで、他のみんなも頑張ってくれれば、それが日本の女子棒高跳界のためになると思います」


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