2006/8/12 森千夏さん告別式
森さんの人柄と競技観が偲ばれるエピソードも
4人の弔辞から告別式の雰囲気を再現


 虫垂がんのため8月9日に26歳で死去した森千夏さんの告別式が、12日10時から東京都港区の青山葬儀所で営まれ、約700人が参列して不世出の砲丸投選手の最後を見送った。
 弔辞を読んだのは4人。東京高時代の恩師である小林隆雄先生、スズキで同期だった池田久美子選手、選手の立場を代表して為末大選手、そして大学時代の恩師で卒業後も専任コーチだった青山利春国士大監督である。その内容をざっと紹介することで、告別式の雰囲気を伝えたいと思う。

「森ぃ、そんなところで寝ていないで、砲丸投げようよ。みんなに砲丸投げているところ、見てもらおうよ」と、森さんに語りかけ始めた小林先生。東京高に入学当初からオリンピックを目指していたこと、それから9年間で不可能と思われた五輪出場を実現したこと、一日中でも練習をやり続けたこと、最後に病院に駆けつけたときのエピソードなどを紹介した。
「君の遺志を引き継ぎ、オリンピックでメダルを取れる選手を必ず育てます。そのときは君も一緒に、あの舞台でもう一度戦いましょう」
 列席者や全国の陸上ファンには「彼女の笑顔と投げている姿を、忘れずにいてやってください」と訴えかけた。そして最後にまた、森さんに語りかけた。
「森ぃ、これからも砲丸投げるんだよ。天国のオリンピックで、メダルを取ってください」

 次に弔辞を述べたのは池田選手。同期のトップ選手同士ということで、最も親しく話ができた存在だった。涙ながらに森さんに語りかける様子は、会場の涙をも誘った。こちらに、池田選手の話した弔辞を掲載した。

 3人目は為末選手。池田選手同様に涙声だったが、これも同じようにしっかりとした話しぶり。女子砲丸投で16m台の日本記録を18m台に引き上げたことと、オリンピックに出場したことの驚き。アテネ五輪で15m台しか出せなかったことが、同じ選手として悔しかっただろうと想像できたこと。森さんへの支援の輪が、選手たちを1つにまとめたことなどに言及。
「選手が1つになって陸上界を盛り上げるところを、見ていて欲しかった。でも、もう十分すぎるほど頑張っただろうから、天国ではのんびりと、陸上を楽しんでください」

 最後の弔辞は青山監督。「森千夏さん、いや、森っこ。お別れの時が来ましたね」とまずは語りかけ、その後は多くのエピソードを披瀝してくれた。意外だったのは、中国合宿で森さんが弱音を吐いていたことだ。
「先生、寂しいです、言葉がわかりません。と、手紙に書いてきました。電話でも、何度も泣き言を繰り返しました」
 意外に感じたのは、取材では中国が大好き、中国に行くと投げられる、1年中でも中国にいたい、と話していたからだ。本当に1回だけ、「ホームシックになることもあるんですよ」と漏らしたことがあったが、それは誰にでもある普通のことだろう、と森さんの本音に気がつかなかった。
 青山監督はどう対処したか。
「そのとき、初めて森を叱りました。何しに中国まで行っているんだ。たくさんのことを習得するためじゃないのか。言葉がわからなければ、ノートに漢字を書いてもらえ。そして、もっと自分を見つめるようにしなさいと。それから、森は決して弱音を吐かない選手に成長しました」
 ガンとわかって入院してからも、前向きな姿勢は崩さなかったという。
「先生、病気が治ったら北京です。その後はロンドンです。北京は19m以上と目標を設定しました。先生、そのための計画を作っています」
 青山監督から語られる森さんの言葉は、生前の彼女を思い起こさせるに十分すぎるものだった。弱音を吐いた森さんに厳しく接した青山監督が、最後はねぎらいの言葉でしめくくった。
「もう重い砲丸も、バーベルも持つ必要はありません。安らかに、永久の眠りにつかれることをお祈りします」


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