2002/3/24
山中美和子、世界クロカン日本シニア過去最高順位記念
年次別ベスト記録と主要大会戦績
年度 |
学年 |
800 m |
3000m |
5000m |
1万m |
ハーフ |
国内選手権成績 |
国際大会 |
国体 |
備考 |
1992 |
中2 |
2.15.9 |
9.45.7 |
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1993 |
中3 |
2.13.02 |
9.10.18 |
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全日中800 m3位、1500m1位 |
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少年共通3000m3位 |
3000m中学新 |
1994 |
高1 |
2.13.37 |
9.19.72 |
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インターハイ3000m11位 |
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少年共通3000m8位
少年B800 m5位 |
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1995 |
高2 |
2.10.24 |
9.18.72 |
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インターハイ3000m5位 |
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少年共通3000m2位 |
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1996 |
高3 |
2.11.08 |
9.08.16 |
15.57.1 |
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インターハイ3000m3位 |
世界ジュニア3000m7位 |
少年共通3000m1位 |
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1997 |
大1 |
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15.42.39 |
33.09.01 |
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日本インカレ5000m9位
1万m7位 |
ユニバー5000m6位
1万m3位 |
成年5000m11位 |
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1998 |
大2 |
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16.12.73 |
33.47.86 |
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日本インカレ1万mdnf |
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成年5000m10位 |
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1999 |
大3 |
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15.52.03 |
34.26.73 |
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日本インカレ5000m2位 |
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成年5000m8位 |
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2000 |
大4 |
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15.52.85 |
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1.13.14. |
日本インカレ5000m2位 |
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成年5000m7位 |
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2001 |
社1 |
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15.36.88 |
31.53.7 |
1.08.54. |
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世界クロカン・ロング4位 |
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山中の足跡から気づいたこと等々
山中美和子(ダイハツ)が3月23日の世界クロスカントリー選手権シニア女子ロング部門で4位と大健闘した。世界クロカンでの日本人メダリストは過去、99年大会のジュニア3位だった藤永佳子(当時諫早高)ただ1人しかいない。4位となると、91年に宮崎安澄(当時筑紫女高)がいるが、シニアでは誰もいないはずである(100 %調べきれず)。
とにかくすごい快挙であるので、山中の現在までの足跡を簡単に表にまとめてみた(駅伝も中学時代に全国都道府県対抗女子駅伝で快走を見せているが、そこまで全部手が回らず)。
山中の“強さ”が最も際だっていたのは中3のとき。今も残る9分10秒18の中学記録は、歴代2位を14秒も引き離す圧倒的な記録である。全日中最長距離種目は1500mと山中には物足りない距離だったように思うが、きっちり優勝している。
中学時代の突出した“強さ”から、また、中3時に国体少年共通3000mで3位に入っていることから、高校ではすぐにでもタイトルを取るのではないかと思われた。しかし、表からもわかるようになかなか勝てず、最後の最後、トラック最後の全国タイトルである高3時の国体でやっと勝利を手にしている。
全日中での優勝はあるものの、中3時の東四国国体の中学新などもあり、高校時代までの山中は、選手権よりも国体のイメージの方が強い。
高3時に世界ジュニアで入賞し、大学1年時にもユニバーシアードで銅メダルを取ったことから、インカレを席巻するものと思われたが、筑波大の4年間は結局タイトルが取れなかった。同年代選手との力の差は、相対的に見れば確実に縮まっていた。日本選手権には一度も出ていないし、大学4年時には、筑波大の後輩・藤永佳子に敗れるシーンも多く見られた。
ダイハツ入社後もすぐには復調できなかったが、秋に5000mの自己新を出した頃から、上昇カーブを描き始めた。1万mでも31分台を記録。淡路島女子駅伝では福士加代子(ワコール)の前に敗れ、チームも全日本実業団対抗女子駅伝出場を逃す事態になったが、山中個人は10kmロードやハーフマラソンで連勝街道に入った。1月の全国都道府県対抗女子駅伝は1区で、同学年の渋井陽子(三井住友海上)を制し、2月の千葉国際クロスカントリーは福士の前に再度敗れたが、3月3日の福岡国際クロスカントリーでは福士に雪辱していた。
山中のレースの特徴は、序盤からトップを積極的に走ること。12月の神戸女子ハーフマラソンでは、文字通りスタートからフィニッシュまで、集団のトップを守り続けて優勝した。横浜国際女子駅伝では後ろに付く展開を試したというが、彼女の持ち味は積極性だろう。神戸ではラスト勝負を制したが、本来はその前に決着を付けたい選手。インカレでは先輩の菅原美和に、ラストで引き離されていた記憶がある。
切れが今ひとつという印象のせいか、あるいはユニバーシアード1万m銅メダルのせいか、5000mよりも1万mの方が向いていると思っていたが、日本インカレでは3・4年時には5000mにしか出ていない。本人の意識にはまだ1万mはちょっと、という部分があるのか、この春のトラックも5000mが中心だという。今回の世界クロカンや、神戸ハーフで見せた走りからすると、1万mもいけるのではと思われるのだが…。それは、秋以降の楽しみとなる。
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