2002/3/10 全日本実業団ハーフマラソン
佐藤敦之vs.永田宏一郎
維新ゆかりの地で、1年前の学生2強が東西対決……
その2 苦しい1年間を克服してともに上昇気運の2人

 永田宏一郎はちょうど1年前の3月、大学卒業直前に出場した京都ハーフで1時間01分09秒の好タイムをマークした。これは、平地コースでは日本歴代3位というすさまじい記録。さすがに鹿児島出身だけあって、維新の舞台となった京都では……話を陸上競技に戻そう。好記録を出したものの、永田はここで故障をしてしまった。
 永田はその前年12月に1万mで27分53秒19(学生歴代3位)と、世界選手権のA標準を突破しており、社会人1年目の最大目標にエドモントンを考えていた。6月の日本選手権にはぎぎりで間に合わせ、日本人3位で代表入り。しかし、無理に間に合わせた反動が出たのか、エドモントン前に右すねの骨膜炎が悪化。現地入りすらできずに終わった。
 秋のトラック・レースにも間に合わず、駅伝シーズンになんとか間に合わせたが、肝心のニューイヤー駅伝1週間前に右大腿裏を故障。エース区間の2区を任されたものの、区間13位と散々な出来。その後の朝日駅伝、全国都道府県対抗男子駅伝もパッとしなかった。

 佐藤敦之の学生最後の競技生活は惨憺たるものだった。9月の日本インカレでの快走を最後に、疲労が蓄積して満足に走れない状態になってしまったのだ。エースとしての走りが期待された最後の箱根駅伝も欠場し、早大は10位で予選校に転落した。
 中国電力に入社しても状態はなかなか好転しなかったが、9月末の全日本実業団1万mで3位、28分13秒18の自己新と復活した。しかし、復活の勢いが結果に出るはずだった12月の福岡国際マラソンで2時間14分41秒(11位)と失速。復活の勢いは一時的なものだったのかと、関係者を心配させていた。

 上記のような流れがあるだけに、2人にとって、このハーフマラソンは重要な位置づけだったはずだ。永田は1月までの不調、故障がちだった1年間の不調から抜け出せるか。佐藤はニューイヤー駅伝では2区で区間2位と好走していたが、その好調が点でなく線となっているのか。
 レース後の永田のコメントを紹介したい。
「ずっと左脚をかばって練習していましたが、最近やっと、うまく蹴られるようになりました。まだ完全ではありませんが、本来のフォームに近づいています。このレースは、冬期練習がどの程度できているかの目安となります。これからトラック練習に、いい感じで入れます。スタミナは問題ないと思うので、あとはスピードを戻していくだけ。シーズン前半は1500mと5000mに出てスピードを戻し、秋には1万mで来年の世界選手権のA標準(27分49秒00)を狙います。アテネ五輪を狙うために、スピード強化のシーズンにしたいと思います」

 結果は永田だけでなく、佐藤にとっても合格点をつけられるものと言っていいだろう。ゴールの維新百年記念公園陸上競技場では、2位から7位の選手が相次いでフィニッシュラインに雪崩れ込む激戦となったが、佐藤は135年前の雪辱をきっちりと果たしたのだから。


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