2002/8/25 北海道マラソン
東京ランナーズ倶楽部“第三の女”
吉松がマラソン・デビュー


「練習から考えたら力は出し切ったと思います」と話すのは、東京ランナーズ倶楽部の浜田安則コーチ。2位となった吉松久恵は同クラブの第3期生。市川良子、市橋有里に続く期待の選手が、初マラソンに挑んだのである(2001年12月のNAHAマラソンに出場しているが、吉松サイドはマラソン回数にはカウントしていない)。27km手前で優勝した堀江知佳(積水化学)に引き離されはしたが、2位はキープ。2時間28分49秒は堀江と2分38秒差だった。

吉松のコメント
「勝負に負けたことは、やっぱり悔しいです。先頭に立った人の後ろに付けて、付いていけるところまで付いていきたかったのですが、我慢しないといけないところで離れたのが悔しい。疲労を抜いて、次の大会に向けて頑張っていきたいです」

どんな練習段階で2位(2時間28分49秒)となったのか
 一貫指導を標榜する東京ランナーズ倶楽部だが、吉松には市川&市橋と大きく違う点がある。
 市川と市橋は中学を卒業すると同時に上京し、東京ランナーズ倶楽部として浜田コーチの下でトレーニングを開始。インターハイや高校駅伝など高体連の試合には出場せず、独自路線で強化した。2人は高校を卒業した時点でフルタイムのアスリートとなり、市川はトラックで五輪2大会連続代表に、市橋はマラソンでセビリア世界選手権銀メダル&シドニー五輪出場と、日本のトップレベルで活躍し始めた(市川は高校3年時に、すでに広島アジア大会代表となっている)。
 それに対し吉松は高校(山口県の徳山高)までは、地元で走っていた。日本女子大進学と同時に東京ランナーズ倶楽部入り。しかし、授業優先の生活で、市川・市橋と同じ練習をこなせるまでにはならなかった。浜田安則コーチは「高校までそれほど練習をしていませんでしたし、(大学4年間も)時間的、体力的両面の理由で、一緒の練習はできませんでした」と説明する。
 今年の3月に大学を卒業。さあこれから、という時期にヒザを打撲してしまい、本格的練習の再開は6月中旬、レースにつながる練習は7月になってからだった。
「練習はジョッグ中心で、ちょっとペーランをやったくらい。レースペースの練習は2万mの距離走を1回だけ。あとは40kmと35kmのビルドアップを1回ずつ、ペースは4分30秒から3分40秒です」
 そのくらいの練習でこの結果を出すのだから、潜在能力の高さを証明した走りだった、と言えるような気がする。現時点ですでに、「市橋の2回目のマラソン(97年東京で6位・2時間31分25秒)のときよりも強い」という浜田コーチの評価なのだ。市橋はその1年後の98年東京で浅利純子(ダイハツ)に僅差の2位となり、99年の世界選手権で銀メダルを獲得した。
「基礎体力づくりということでジョッグをたくさんやっているからでしょう。ジョッグが生きるタイプです。スピードは元々ある方ですし」(浜田コーチ)
 吉松は中学時代に3000mで9分34秒2、高校では9分12秒69で走っている。高3時のインターハイ3000mは4位。その世代ではバリバリのトップレベルだった。スピードの下地があれば、マラソンをやる上でそれほどスピード練習に時間を費やさなくともよくなる。かなりのアドバンテージとなるはずだ。
「今回はテストラン。今後もトラックとマラソン、両方を積み重ねていきます。今日の条件で後半も落ち込みませんでしたし、マラソン向きはマラソン向きかな、とは思いますが」(同)
 名門クラブにホープが誕生したのは間違いのないところ。練習内容から推測されるのは、長期スパンで結果を出せばいい、との方針。同クラブの基本方針でもある。とはいえ、「目先の結果も大事ですよ。スポンサーに付いてもらわないといけませんから」(浜田コーチ)という事情もある。今後が注目される。

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