2002/8/25 北海道マラソン
北海道マラソン終了1カ月記念特別記事
初マラソンで合格点の2位
ケガと付き合っていくことを決めた山本の
中味の濃いコメントをふんだんに紹介
初マラソンの山本佑樹(旭化成)が2時間15分17秒で2位。最後の競り合いでカンディエ(ケニア)に敗れたとはいえ、この3年間のことを考えれば、合格点のつけられる走りだった。
山本は高校(橘高)時代こそ、同じ静岡県内に古田哲弘(浜松商高→山梨学大)がいて目立たなかったが、日大1年時の世界ジュニア5000mで7位に入賞。2年時と4年時には日本インカレ1万mに優勝し、学生トップランナーとして旭化成の門を叩いた(2000年入社)。しかし、大学4年時の箱根駅伝欠場を余儀なくさせられた右脚付け根の痛みが、慢性化していた。旭化成入社後も思うように走れない日々が続く。
「痛みのない時期はなかったです。練習でも違和感があって、途中でやめてしまうこともあって、監督と言い合ったこともありました。“精神的にちゃんとしろ”という意味のことを言ってくださるのですが、僕としては動かないので、どうしようもありません。監督が病院を紹介してくれて、昨年の2月(入社10カ月目)に手術をしました。はっきりした病名のないような痛みなんですが、筋肉が発達しすぎて血流がうまく流れなくなるのが原因だそうです。右脚の付け根を筋膜切開しました」
昨年の夏に、旭化成の練習に合流。秋から本格的に走ることができた。ニューイヤー駅伝は好調も伝えられ、スピードランナーが多く起用される3区(11.8km)に出場したが、区間27位と、旭化成の同大会史上最低の区間順位を記録してしまった。次の4区・井手慶も同じ区間順位。1区・2区も区間19・13位で、後半の3区間で追い上げたが10位に上がるのが精一杯。チームとしても最低順位だった。
そこから立ち直るのに、クロスカントリーを利用した。延岡の本拠地にはクロカンコースも完備している旭化成だが、かつてはクロスカントリーのレースに、それほど積極的ではなかった。ところが今年は、「クロスカントリーを1・2・3月とやってみよう」ということで、国内のクロカンにも積極的に出場。3月の世界クロカンには山本を含め3人を日本代表として送り込んだ(もちろん、クロスカントリーだけが復調の要因と言い切れるわけではない)。
「(ここまで来るのは)長かったと言えば、長かったですけど、自分が納得できなければ意味がないと、その都度“こういうトレーニングでやってみよう”と、前向きな姿勢で取り組むようにしました。いい意味で開き直りました。4月に、僕の方から北海道マラソンをやりたいと申し出たら、監督も“じゃあ、やってみよう”と言ってくれて…。
(マラソン練習に入ったのは)5月25日のゴールデンゲームズの翌日から。距離を踏んでスタミナづくりをする、いわゆるマラソン練習をやってきました。佐々さんと同じ練習の流れです。出された練習は予定通りにこなし、40km走を2本よぶんにこなしました。全部で9本です。そしてスピード練習をちょこちょこ入れて、体調を上げてきました。特に狂いはなかったです」
元々トラックのスピードがある選手で、長めの距離への適応力も感じさせる選手。今回の好成績で、マラソン・ファンの山本への期待は一気に高まった。とはいえ、取材の途中、山本の発言でちょっと気になる部分があった。「手術後も痛みは変わっていない」というコメントがあったので、詳しく聞いてみた。
「変わっていないというよりも、完治していない、ですね。正月の駅伝も、それが原因でした。1回だけその症状がひどくなってしまって、ダダっとペースが崩れてしまいました。でも、我慢できると思うんです。手術をしてみて“これが自分の脚なんだ”と考えることができましたから。今までと同じような痛みが出ても我慢できます。手術をすることによって、気持ちが前向きになれた……それが大きかったと思います。
1万mで27分台は本当に出したいです。それには、右脚分を差し引いて、27分30秒の力を付ければ出せる、そう考えるようにしています。きついかもしれませんが、人より我慢すればいいだけのことです」
同学年では世界ジュニア銅メダルの古田はすでに引退し、代わって坪田智夫(コニカ)が出世頭。箱根駅伝では山本が欠場した4年時に2区で区間賞。全日本実業団駅伝でも、入社1年目の昨年、そして今年と区間賞の走りでチームの2連覇に貢献。今年は1万mで27分台を出し、日本選手権も優勝し、アジア大会代表となった。大学4年のトラック・シーズンまでは、その坪田に勝っていたのである。
「同期に坪田、1つ上に三代(直樹・富士通)さんがいます。手術前は、彼らと勝負できない自分が許せなかった。やってる意味がないと思っていました。今は、コツコツはい上がって、また高いレベルでやりたいと思っています。秋は駅伝をやっていきますが、できれば冬にもう1本、マラソンを走りたいと思っています。マラソンに挑戦しながら脚をつくっていって、2〜3年継続して鍛えて、またトラックにも挑戦したい。
3年以上もトラックから遠ざかっていますので、今の時点では自分のことを知っている人は少ないと思いますが、少しずつアピールしていきたいと思っています」
山本の1つ上の学年が、長距離の“松坂世代”と言われている。三代に藤田敦史、岩佐敏弘(大塚製薬)に瀬戸智弘(カネボウ)、そして油谷繁(中国電力)。すでに日の丸をつけた経験のある選手がひしめいている。だが、坪田に西田隆維(エスビー食品)もいて、山本の学年も強力だ。数年後には、三代の代と並び称されているかもしれない。
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