2016/7/2-3 
日大OB2人が連日のリオ五輪標準記録突破で代表入りをアピール
川元奨 日体大競技会800 mで1分45秒97
澤野大地 日大競技会棒高跳で
5m75

 2人の共通点は日本記録保持者であり、日大OBであること。そして何より、標準記録未突破でリオ五輪代表入りは逃したが、1週間前の日本選手権での“勝ち方”に強さが感じられたことだ。

 日本選手権の川元奨(スズキ浜松AC)はスタート直後からのフロントランを敢行。1分46秒22で横田真人(富士通)を振り切った。ペースメーカー不在のレースでの日本最高タイムで、標準記録の1分46秒00に迫ったのである。
 澤野大地(富士通)は雨天のなかで5m60に成功。荻田大樹(ミズノ)、山本聖途(トヨタ自動車)という5m70の標準記録(棒高跳は派遣設定記録も同じ唯一の種目)突破者2人にも、今季3連勝を達成した。

 川元は7月2日の日体大競技会で1分45秒97と標準記録の1分46秒00を突破。澤野は翌3日の日大競技会で派遣設定記録の5m70に成功すると、さらにバーを上げて5m75もクリアして見せた。
 1分45秒97はパフォーマンス日本歴代2位で、5m75はパフォーマンス日本歴代3位。2つの記録を上回っているのは当の川元と澤野しかいない、という点も共通していた。

@“0.03秒”突破を実現させたものとは?

 わずか0.03秒が明暗を分けた。ギリギリでのフィニッシュだったのは、川元自身もわかった。だが、日体大のタイマーは止まらないため、確信は持てない。待つこと1分程度。競技役員に正式タイムを告げられて、緊張が一気に解けた。
「1分46秒かー、と思ったので、45秒台と聞いてビックリしたというか、本当に良かった。安心しました」
 今季は5月にゴールデングランプリ川崎と米国遠征、6月に日体大長距離競技会と日本選手権と、1分46秒00の壁に跳ね返され続けて来た。
 何が0.03秒の突破を可能にしたのだろうか。

 川元本人は「引っ張ってくれたからですかね」と話した。
 日本選手権はフロントランだったが、日体大は400 mまでは戸澤文也選手(日大)が、500mまでは渡辺崇臣選手(日体大)が、そして600mまでは柳澤純希選手(住友電工。日大OB)がペースメーカーを務めた。
 やはり、ペースメーカーがいた方が記録は出しやすい。選手の体感的にはこれが一番大きいのだろう。

 100 mでは外国人選手がペースメーカーよりも前に出た。ペースメーカーの設定のことは伝えてあったのだが、外国勢もこの大会に標準記録突破を懸けていたため、テンションが上がってしまったのだろう。
 しかし川元がペースを上げて先頭に立つと、ペースメーカーの戸澤を先頭に出させた。川元自身は「意識してやったわけではない」という。あれこれ計算しながら走った1カ月前の日体大とは違い、「何も考えず、行くしかないと思って走った」という。
 200 m毎の通過タイムは以下の通り。

     日本選手権    日体大
200 m:  24秒9     25秒09(日大がデジタルビデオから算出)
400 m:  51秒1     51秒73
600 m:1分18秒5  1分18秒61
800 m:1分46秒22  1分45秒97

 400 m通過は約0.6秒遅いが、600 mでは0.1秒後れとタイム差を縮めている。
 レース展開を見ても、500mではペースメーカーから少し離れてしまったが、600 mまでに差を詰めている。そこも「タイムを気にせず、ひたすらついていった」と川元。
 気象条件的には、6月の日体大ほど強くはなかったが、この日の日体大も少し風が吹いていた。バックストレートの追い風を、上手く利用したことでレースにアクセントをつけることができたようだ。
 600 mで日本選手権とほぼ同じタイムになっていたが、川元は「読んでいただいていたので聞こえましたが、どんなタイムでも行くしかない」と突き進んだ。

 ラスト150m前後で川元は両腕をだらりと下ろして脱力する動きを入れている。6月4日の日体大のレースでは動きに硬さが見られ、最後の直線の伸びが今ひとつだった。長野へ帰省時には肩甲骨周りなど関節の柔軟な動きや、スムーズな重心移動を意図したドリルを繰り返した。
 それが、残り200 mで日本選手権を上回る要因の1つになった。“行くしかない”というメンタルがこの日の川元だったが、冷静さも頭の片隅にインプットされていたのだ。

 標準記録こそ突破できなかったが、今季のここまでの流れ自体は悪くなかった。
 大学入学後では初めて冬期を故障なしで過ごした。2月には米国でリビングハイ&トレーニングローの変則高地練習も試みている。追い込みきれなかった部分もあったが、その分、試合期に入って徐々にタイムが上がっていった。
 シューズが脱げてしまった静岡国際はともかく、5月20日のディスタンスクラシック(米国)では600 m通過に余裕が感じられ、6月4日の日体大は風が強い中で1分47秒00で走り、川元と松井一樹コーチは手応えを感じていた。
 だからこそ予定を変更して日本選手権でも標準記録を狙いにいったし、日本選手権で失敗しても、翌週の日体大での再チャレンジも予定に組み込んでいた。日本選手権後も川元のテンションは高く、練習をやり過ぎないように松井コーチが手綱を締めていた。

 冷静に比較すれば、フロントランの1分46秒22の方が評価は高いだろう。松井コーチは「1分45秒00も狙えると思っていた」というから、日体大は完璧なレースではなかった。1分45秒97は記録を出しやすい要素に恵まれ、そのチャンスを生かすだけの地力を川元がつけていた、ということだろう。0.03秒突破は、これをやったから、という1つの要素ではなく、スタッフを含めた総合力で成し遂げた。

 川元に日本記録の1分45秒台と、今回の1分45秒台の違いを質問した。
「日本記録は頑張って走って、外国選手にも勝つことができたら出ていたタイムです。今回は“出る出る”と思っていて、出るべくして出た1分45秒台ですね」
 日本記録更新こそできなかったが、日本選手権と日体大の2レースは明らかに、2年前の川元より成長していることを示している。

A「支えてもらった5m70」

 5m50から跳び始めて50、60は1回目にクリアしたが、リオ五輪標準記録(男子棒高跳のみ標準記録=派遣設定記録)の5m70は2回失敗してしまった。そのときに澤野大地(富士通)は何を考えて、ラストチャンスの3回目の試技に臨んだのだろう?

「練習跳躍の5m50からラウンドの5m50、60もまったく問題なく、良い感じで跳べていました。70の1本目はポールが軟らかくなってダメだったので2本目は硬いポールに変えて行ったのですが、突っ込んだ瞬間に“硬い!”と自分で思ってしまって、瞬間的に流してしまったんです。それでも行けそうな感じもあり、クリアランスまでもっていったのですがヒザが触ってしまいました。70は甘くなかったですね。でも、高さは出ていましたし、練習でも毎週、普通に跳んでいる高さですから、3本目も普通に跳べるはずと思って臨みました。ちゃんと踏み切って、しっかり振れたら行ける。そう思って、思い切って行きました。今季はここまで、70の高さになると跳びたい気持ちが力み、硬さになって出てしまっていた。何か別のことをしようとしてしまっていましたが、50、60の高さと同じことをすればいいだけのこと。そのためのポイントを押さえればいい、という気持ちで70の3本目に挑みました」

 標準記録をクリアし、続く5m75も2回失敗したが、3回目に綺麗にクリア。2回目は向かい風で良い跳躍ができなかったが、3回目に追い風となったところで助走のスタートが切れた。
「気楽な気持ちになれたので、踏み切り直前のポイントと、踏み切った後にしっかり振ることだけを考えて行ったら、抜けていました」
 今季世界リスト7位の跳躍をホームグラウンドの日大で、恩師の先生方や教え子でもある学生たちの目の前で跳んでみせたのだった。

 澤野の5m70は2年3カ月ぶりだが、5m75は9年2カ月ぶり。5m70以上を跳んだ試合は、陸上競技ランキングによれば24試合目だ(室内大会や、海外でストリート棒高跳などにも多く出場しているので、収録漏れがあるかもしれない)。
 2003年6月に初めて5m70台を跳んでから13年と1カ月。これだけ長期間に渡って5m70以上を維持し続けた(3シーズン跳んでいないが)選手は、日本人ではもちろん初めてで、世界的にも珍しい。前世界記録保持者のセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)が83年から98年まで15年0カ月維持したが、現世界記録保持者のルノー・ラビレニ(フランス)は7年半で(現在29歳)、歴代3位を持つドミトリ・マルコフ(豪州)も10年3カ月である。

 これまで跳んできた5m70の試合との違いは何か? という問いかけに澤野は次のように答えた。
「支えてもらった5m70ですね」
 日大卒業後にニシスポーツに入社し、日本記録の5m83を2005年にマークした。五輪には04年、08年と連続出場し、世界陸上は05年ヘルシンキ大会で跳躍種目初入賞を果たした。その後千葉陸協登録となり、実質的にはプロの棒高跳選手として活動していた時期もあった。そして12年から所属チームは富士通となり現在に至るが、13年からは日大文理学部の非常勤講師を、そして今年4月からは日大スポーツ科学部の専任講師を務める。
 ヨーロッパ、米国と海外でも多くの関係者の知己を得て棒高跳を続けて来た。
 華やかで多彩な経歴と映るが、澤野の話を聞いていると、我を通してきた部分もあったと推測できる。
「所属先の富士通、母校の日大、スポンサーのナイキやザバス、そして家族…。今日も小山先生(日大監督。スポーツ科学部学部長)やスポーツ科学部の先生方、富士通の佐久間コーチが見守ってくれましたし、学生たちも協力してくれて(5m40まで跳んで)、良い雰囲気を作ってくれました。日本選手権のあと色んな人たちが“オメデトー”って連絡をくれて、みんなが“(代表入りを)信じているから”って言ってくれた。その人たちのためにも跳んで、リオに行きたい気持ちがすごく強かったんです」

 跳躍は以前の映像と比較するとわかるが、助走が明らかに変わっている。澤野は今季、自身のTwitterに5m70の練習での跳躍動画をアップしているが、本当に5m70なの? と疑問に思うくらいに以前と比べて力感がなくなっていた。最初に見たときは、踏み切らずに走り抜けるのではないか、と感じたほどだ。
 昨年の故障も助走を変えたきっかけの1つだった。4月の試合には痛みを抱えながらも出場していたが、右脚アキレス腱の内部損傷がひどく、6月の日本選手権は欠場せざるを得なかった。澤野の欠場といえば、予選を突破しながら決勝を欠場した03年のパリ世界陸上が思い浮かぶ。。そのときもサンドニ・スタジアムに入ってから肩を震わせながらサブトラックに引き揚げていったシーンが印象的だったが、昨年の日本選手権も新潟のウォーミングアップ会場で同様のシーンがあったようだ。
 昨年11月に試合に出て5m20を跳んだが、冬期練習に入る前に跳躍を確認する意味が強く、今年4月の織田記念が「ちゃんとした試合は約1年ぶり」だった。風が難しい条件だったが5m60を跳び、山本と荻田の2人に勝ったことに驚かされた。
 競技後の会見で「助走の精度を上げれば5m70、80、90と問題なく行ける」と、自身が11年前に跳んだ日本記録(5m83)を上回る数字をさらりと口に出した。

「昨年、本格的な練習が再開できたのは10月か11月ですが、年末まで、富士通のチームメイトとかなり良いトレーニングができました。年明けのアメリカ合宿でハムストリングを痛めてしまい、このときもしっかりした練習を再開できたの4月なのですが、この1カ月はかなり良いトレーニングができてきたんです。(それが可能になったのは)試行錯誤していく段階で色んな気づきがあり、棒高跳がさらに上手くなった感覚を持てているから。頑張りすぎなくても跳べると感じています」

 日大跳躍ブロックの加藤コーチは、澤野の変化を次のように説明してくれた。
「以前は大きく走ろうとして、振り出したり、力が入りすぎた助走になっていました。そこまで力を入れなくても走れている、ということに気づいて、今は静かにサーッと流れるように走れています。ポールを保持する位置もよくなって、踏み切り6歩前からの降ろし方も安定してきました。そこの部分で心の余裕も出てきているように思います。それによって突っ込んだあと、以前よりもう一段階押せるようになって、ポールの曲がり方も5m80を跳んでいた頃に戻ってきた。痙攣も多くなっていましたが、練習の休み方、強弱の付け方を見直したことで落ち着いてきましたね。集中力が持てば5m80、85という高さも行けますよ」
 ハンマー投の室伏重信が自身の日本記録を10年ぶりに更新しているが(1971年の日本記録を81年に更新)、跳躍種目で11年ぶりの更新をやってのけたら、空前絶後のこととなるのではないか。

 正式発表は7月12日か13日になるが、リオ五輪追加代表入りも確実になった。前回のロンドン五輪は逃したが、04年アテネ五輪から3回目の出場となる。リオをどんなオリンピックにしたいか、という問いに澤野は、5m70のときと同じような答え方をした。
「ここまで競技を続けさせていただけたのは、本当に周りの人たちのおかげです。応援してくれる方、気にしてくださる方が力を送ってくれるのがすごく嬉しくて僕は跳び続けている。その人たちのためにも、リオでは感謝の気持ちをしっかりと伝えられる跳躍をしたいと思っています」
 澤野自身は具体的な数字は口にしなかったが、こちらからの「その気持ちが5m75、80を跳んで入賞という形になれば?」という問いかけには大きく肯いていた。


寺田的陸上競技WEBトップ