2014/1/25 大阪国際女子マラソン展望
五輪トラック代表&世界陸上マラソン5位の赤羽がラストラン
日本人初のママさん代表を支え、導いた周平コーチ


@周平氏のコーチ就任と自己記録大幅更新
 ママさん選手として日本人初の陸上競技五輪代表となった赤羽有紀子(ホクレン)が、大阪国際女子マラソンを最後に引退する。
 レース2日前の会見で“誰への愛を胸に走りますか?”という問いかけに「家族の支えがあったから、ここまでやってこられた」と、夫の周平氏、愛娘の優苗(ゆうな)ちゃん、両親への感謝の言葉を口にした。

 赤羽が力を伸ばしたのは結婚し、夫の周平氏がコーチに就任した2005年。
 城西大時代にユニバーシアードのハーフマラソンで銀メダル(99年)、1万mで銅メダル(01年)を取る活躍を見せた赤羽だが、5000mの記録は大学2年時(99年)の15分27秒89をなかなか更新できなかった。しかし04年に15分35秒60を出すと、05年11月には15分11秒17と大幅に自己記録を更新した。当時の日本歴代4位だった。

赤羽のシーズン毎ベスト記録と国際大会成績
5000m 1万m ハーフ マラソン 国際大会
1999 15:27.89 32:54.14 1:13:28   ユニバーシアード・ハーフマラソン2位
2000 15:44.7h        
2001 15:35.13 32:57.35 1:11:23   ユニバーシアード1万m3位&5000m8位
2002 15:41.20 32:59.16 1:13:04    
2003 15:59.64        
2004 15:35.60   1:15:36    
2005 15:11.17        
2006 出産  
2007 15:22.73 31:23.27      
2008 15:06.07 31:15.34 1:08:11   北京五輪1万m20位&5000m予選2組12位、世界ハーフ10位
2009 15:35.05 31:57.44 1:08:50 2:25:40 世界陸上マラソン31位、世界ハーフ26位
2010 15:41.96 32:26.25 1:10:55 2:24:55  
2011     1:09:16 2:24:09 世界陸上マラソン5位
2012   33:08.59 1:09:56 2:26:08  
2013 16:18.68 33:17.13 1:08:59 2:24:43  

 周平氏は中距離出身。コーチに就任して動きを変える方向で指導した。
「学生時代の映像を見ると別人みたいですね。上体が起きてしまっていて。それを徐々に、骨盤を緩めて前傾させて脚がしなりながらついてくる動きに変えていきました。脚を引き上げて前に出すイメージをなくしたかったんです。脚で走ろうとすると故障にもつながりやすくなる」
 周平コーチは農家を営む赤羽家らしい例えをした。
「田んぼの泥の中で歩くとき、腰から抜こうとしないと足を上手く抜くことができません」
 以前よりも大きなストライドを獲得できるようになった赤羽は、飛躍的に記録を縮め、07年の世界陸上、08年の北京五輪をトラックで目指す気持ちが固まった。
「しかし、自分たちが結婚したのは子供が欲しかったから。2人で話し合いましたが、子供を産まないという選択肢はありませんでした」

 06年8月の出産直前までジョギングは続けたが、出産を機にトレーニングだけでなく食生活を大きく改善した。
「それまでも故障が多かったですし、出産で強度の高い練習が長期間ゼロになっていました。骨密度低下や貧血を予防するために食事をしっかりさせようと思いました」
 拠点の栃木で練習する期間は、食事を作る役割はもっぱら周平コーチが担った。
 06年秋にはレースにも復帰。
 07年に5000mで15分22秒73まで記録を戻し、1万mでは8年ぶりに自己記録を更新。31分23秒27まで伸ばした。
「1万mまでは動きは大きくは変えませんでしたが、トレーニングに動きづくりはかなり取り入れました。トレーナーさんに治療してもらうだけでなく、動きの部分もかなりアドバイスしてもらったんです」
 そして08年の日本選手権で1万m2位、2日後の5000mでも2位となって北京五輪代表入り。五輪本番では1万mで20位になった。

A故障との戦いでもあった赤羽のマラソン練習。そのなかでのテグ世界陸上5位入賞
 北京五輪後にマラソンに進出するのは、出産したときからのプラン。ちなみに、その頃からロンドン五輪翌シーズンで引退することもイメージしていたという(第2子をもうけることも考えていた)。

「マラソンになるとよりエネルギーロスをなくさなくては走りきれません。ランニングフォームも、よりコンパクトにしたいと考えました。メニューは色々な指導者の教えを請いに行きましたが、実際にマラソン練習をやってみると、有紀子は詰め込めないタイプの選手だとわかりました」
 初マラソンの09年大阪国際女子は渋井陽子(三井住友海上)に次いで2位。レース後に、高橋尚子が徳之島の練習コースを何分で走っていたか、周平コーチが関係者に聞いていたのを目撃したことがある。

赤羽のマラソン全成績
回数 月日 大会 成績 記 録
【1】 2009 1.25 大阪国際女子 2 2.25.40.
【2】 2009 8.23 世界選手権ベルリン 31 2.37.43.
【3】 2010 1.31 大阪国際女子 dnf dnf
【4】 2010 4.25 ロンドン 6 2.24.55.
【5】 2011 1.30 大阪国際女子 1 2.26.29.
【6】 2011 4.17 ロンドン 6 2.24.09.
【7】 2011 8.27 世界選手権テグ 5 2.29.35.
【8】 2012 3.11 名古屋ウィメンズ 8 2.26.08.
【9】 2012 11.18 横浜国際女子 8 2.31.43.
【10】 2013 4.21 ロンドン 3 2.24.43.
【11】 2013 7.07 ゴールドコースト 1 2.27.17.
【12】 2013 8.25 北海道 2 2.32.10.
【13】 2013 10.13 シカゴ 7 2.27.49.
【14】 2014 1.26 大阪国際女子

 09年世界陸上ベルリン大会は、練習の最後の段階で足底の痛みが出てトレーニングの1週間の中断があり、本番ではその不安もあったのか脱水症状を起こした。
 10年大阪国際女子は38kmで途中棄権。2週間前に左膝を痛め、レース中に痛みが出たらすぐにやめるよう話していたが、赤羽は30km手前で失速した後も走り続けた。周平コーチは交通渋滞でなかなか先回りできず、38kmでやっと赤羽を止めることができた。

 故障を回避しながらマラソン練習を行うことが、赤羽の最大の課題だった。
 周平コーチは雑誌の対談で、「ベルリンの後にトレーナーも交えて3人で話し合いました。それまでも故障が多い選手なのに、痛みがあってもできると自分で判断して練習をやめなかった。それができなかったらマラソン選手として大成しないと、厳しく言いましたね。それができないなら、俺はもう見ないとも」と話している。
 赤羽は涙を流しながら、コーチの提案を受け容れた。

 途中棄権した大阪国際女子の3カ月後のロンドンは、自己新で6位と復活。11年の大阪国際女子でマラソン初優勝を達成した。大阪でテグ世界陸上代表を決めたが、4月のロンドンにも2年連続で出場し、これも2年連続で自己新をマークした。

「途中棄権した大阪からロンドンまでは、(故障を避けるため)ものすごく少ない練習でした。そのやり方である程度結果は出ましたが、我々がマラソンに求めていたレベルの結果は残せなかった」

 11年1月の大阪から8月のテグ世界陸上まで、「3つをトータルで考えた」(周平コーチ)という。大阪では代表権を取ることだけ、ロンドンでは自己記録の更新だけを考え、テグに合わせていった。
 ポイント練習とポイント練習の間は中4日空けたという。「ジョッグだらけ」だと赤羽は感じたが、周平コーチに言わせると「距離的には月間900kmは超えていなかった。週間で200kmを超えると走りすぎという感じ」だったと言う。
 だが、そのやり方でテグまでの練習スケジュールはほとんど変えることなく進めることができた。

 しかし、好事魔多し。レース6日前の朝練習後に赤羽が左膝の痛みを訴えてきた。違和感なのか、痛みなのかを確認すると「痛い」と赤羽が答えたという。
 だが、このときは故障と闘い続けてきた過去の経験が生きた。ベルリン世界陸上前は足底の痛みで、レース1カ月前に1週間の練習の空白ができた。そのため影響が大きかったが、テグの前はやるべき練習はすべて終わった後だったので、痛みを取り除くことだけに全力を傾ければ良かった。
 自己新を出した4月のロンドンも、10日前に足の甲を痛めていたなかで出場していた。

「ロンドンでは最終刺激ができませんでしたが、テグは最終刺激が終わっていた。それにトラックではスピード練習が不足すると脚の張りがなくなって良くないかもしれませんが、マラソンなら問題ありません」

 8月末のテグ世界陸上では5位に入賞。アフリカ勢が30kmから35kmまでを、それまでの18分台から16分台に上げたスパートにはつけなかったが、赤羽も40kmまでを16分31秒にペースアップ。最後の2.195kmは7分15秒で、金メダルのキプラガト(ケニア)と2秒しか違わなかった。
 故障しやすい課題を克服してつかんだ世界陸上5位入賞。リオ五輪の選考規定なら「前年の世界陸上入賞で日本人最上位」で翌年の五輪代表に決定したが、当時は「前年の世界陸上メダル」が五輪代表の条件だった。

Bロンドン五輪代表入りに失敗。“悲運のランナー”

 もしも赤羽有紀子が“ママさんランナー”でなかったら、“悲運のランナー”と言われていたかもしれない。
 ロンドン五輪の国内選考レース出場を見送っても、テグ世界陸上の5位で選ばれる可能性もあった。だが、11月の横浜国際女子マラソンで木崎良子(ダイハツ)が優勝。タイムは平凡だったが尾崎好美(第一生命)との競り合いで勝負強さを見せた。12年1月の大阪国際女子マラソンは重友梨佐(天満屋)が後半を独走して好タイムで優勝。3月の名古屋ウィメンズマラソンの結果次第では、赤羽が選ばれないこともある。

 赤羽は“ママさん”という部分が強調されているし、人当たりも柔らかな女性だが、意思の強さはまさにアスリートそのもの。周平氏の指導を最初から信用たわけではないし、その後も何度か衝突している。
 名古屋出場を決意したのも、失敗を恐れないアスリートらしい気持ちからだった。

 だが、そんな赤羽をまたも故障が襲った。2月に左足首を痛めて1週間ほど練習ができなかった。それでも出場に踏み切った。「(レースには出ず選考されるのを)待ってもよかったかもしれませんが、待って選ばれないことだけは避けたかったんです。勝てると信じてレースに出ることにしました」(赤羽)と出場を決断。周平コーチも「名古屋で勝負すると一度言った人間が、ケガで欠場するのは代表にふさわしくない」と、妻の気持ちを優先した。
 名古屋のレース中集団から離されそうになるたびに、「あきらめたら終わり」と言い聞かせて食らいついたが、35km手前で力尽き8位に終わった。
 世界陸上5位の結果で選ばれることに一縷の望みを託したが、翌日の代表発表では木崎、重友、名古屋日本人1位の尾崎好美が選ばれた。赤羽は補欠として選考されたが、嬉しいはずもなかった。

Cスピードの衰えを克服する取り組み

 最後の世界大会として13年のモスクワ世界陸上を目標としたが、すでに33歳。前年の11年後半から「スピードも落ちていた」と周平コーチには感じられた。スピード練習を重ねると右脚の腿の前面に張りが出て追い込むことができない。赤羽自身も悩んでいた。
 モスクワ世界陸上選考レースの12年横浜国際女子も、その影響で8位に終わり、目標を自己記録更新に切り換えた。

 13年ロンドンでは3位。34秒差で自己記録更新ができなかったし、2時間23分台にも44秒届かなかったが、日本人にとって世界陸上&オリンピックより順位を取るのが難しいと言われているワールド・マラソン・メジャースで表彰台に立ったことは評価できた。
 ただ、このときも2時間23分59秒以内であれば、陸連の“派遣設定記録”をクリアしてモスクワ世界陸上代表が決まっていた。豪華メンバーなのにペースが上がらず、15kmから20kmまで先頭を引っ張る展開。最後まで運に恵まれなかった。

 しかし、トレーニング面は進境があった。
 周平コーチはマラソン転向後のスケジュールを見直し、10年以降はレース出場が減っている点が問題で、改善できると考えた。ロンドンに向けては距離走と距離走の間に、1000〜3000mのスピード練習を取り入れた。また、ハムストリングや臀部を意識させる動きづくりや補強などもしっかりと行うようにした。
 スピードを取り戻すことと、腿の張りの改善ができつつあった。

 それでも、総合的に見ればスピードが落ちていく流れが完全に食い止められたわけではない。そこで13年シーズンは出場するレースを増やすことにした。
「年齢的に筋力が落ちていましたが、それだけでなく、レースが年に5本まで減っていたシーズンもありました。1人の練習ではなかなか追い込めません。レースを使ってスピードを維持することができるのでは、と本人に提案しました」

 さらにはポイント練習の間を4日から3日に変更した。
「その代わり2000m10本を7本に減らすなど、中4日の頃と比べ、トータルでも強度は減っていると思います。その分、レースに出て負荷をかける方法にしました」

 距離の短いレースだけでなく、マラソンもトレーニングの一環として出場した。7月のゴールドコーストは2時間27分台で優勝。8月の北海道は2位。
 だが、自己記録更新を狙った10月のシカゴは2時間27分台にとどまった。

 11月に、大阪国際女子を最後に引退すること、最後のマラソンは記録よりも優勝を目標とすることを表明した。

D夫唱婦随

 日本陸上史に残る“ママさんランナー”が生まれたのは、赤羽有紀子という身体的能力が高く、強靱な意思を持った選手が存在したからである。それは衆目の一致する見方だが、@で紹介してきたように周平コーチがいなければ学生時代がピークで競技人生を終えていたかもしれない。
 マラソン転向後も、故障と付き合いながらも結果を残して来たが、周平コーチと試行錯誤の連続だったようだ。今大会レース前日の関西テレビの特番で増田明美さんが「練習メニューや競技のことはすべて俺に任せてくれ。でも、やめるときは有紀子が決めてほしい」と、周平コーチが赤羽に言ったエピソードを紹介していた。
 競技者としての中核は間違いなく赤羽だが、具体的な取り組みの多くは“夫唱婦随”だったといえる。

 アイデアマンの周平コーチは、つねに新しい方法を赤羽に提案していた。それに赤羽が応えるスタイルを、赤羽自身はどう感じていたのか。
「ポイント練習の間を短くした当初は強度も低かったのですが、最近は質も上げられるようになってきました。トラックをやっていた頃のようにできてきています。レースを使ってやっていく方法は、良かったかな、と感じながら取り組んでいました。1人で40km走をやるのはキツイですからね。ただ、シカゴで結果が出なかったので、どうだったのかは、なんとも言えません。何が良くて、何が悪いのかは、その時々で変わってくるものなんだと思っています。それでも(トータルで見たら)結果がずっと出てきましたし、私も“またこれか”というマンネリを感じずにすみましたから、良かったと思います」
 12月の全日本実業団対抗女子駅伝のレース後に聞いたコメントである。

 周平コーチのすごいところは引退レースの今回も、トレーニングの組み立てを大きく変えたところだ。従来の、距離を踏んでからスピードを戻していく流れではなく、先にスピードを上げてから、駅伝後の最後の1カ月で距離を踏んでいく流れにしたのである。その方法で成功した選手も過去にいたが、14回目のマラソンで取り入れるところは、本当に思いきったと言える。
 12月の山陽女子ロードでは1時間09分24秒で日本人トップの2位。実業団駅伝1週間後で、本格的な走り込みはまだこれからの段階だった。
「残り1カ月で脚を作れるか、不安もあります」と言いながらも、周平コーチのメニューを最後までやり抜く覚悟だった。

 そのやり方で成功したら、年齢的な衰えを克服する画期的な方法になるかもしれない。大阪国際女子マラソンで快走できたら、そのパターンをもう一度試したくなるのではないか?
「そのときは、夫が今後指導する選手に生かしてくれれば良いです」
 選手のような、妻のような表情で赤羽は笑った。


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