2014/3/9 名古屋ウィメンズマラソン
メダル候補としてマラソン人生をスタートした堀江知佳
悔い多き競技成績にも「最高の陸上人生」と終止符


 堀江知佳(ユニバーサルエンターテインメント)は12年前の自己記録(2時間26分11秒)更新を目標にラストランに挑んだが、2時間32分58秒で15位という結果に終わった。最後のレースも目標は達成できなかったが、清々しい笑顔で15年間の実業団ランナー生活に終止符を打った。
「競技成績は悔いだらけですが、やってきたことに悔いはありません。最高の陸上人生でした」

高橋尚子の練習パートナーが逆効果に
 堀江のマラソン人生は、“メダル候補”と言われてスタートした。
 須磨女高(現須磨学園高)初のインターハイ・チャンピオンとして99年に小出義雄門下に加わった。2時間29分12秒のジュニア日本最高タイムでマラソン人生をスタートさせたのである。2年目の2000年春の長野マラソンだった(当時の長野は下り坂コースだったため、現在は増田明美が1983年に走った2時間30分30秒がジュニア日本最高)。
 2回目の北海道こそ14位と失敗したが、3回目のマラソンの北海道に2時間26分11秒で優勝した。今年の大阪国際女子マラソンで前田彩里(佛教大)がマークした学生記録が2時間26分46秒。21歳としては最高クラスのタイムだった。
 有森裕子、鈴木博美、高橋尚子と五輪&世界陸上のメダリストが育った小出門下とあって、周囲からは“メダル候補”と期待された。
 だが、当の堀江は、そこまでの意気込みを持てないでいた。
「周りは“メダル候補”と言ってくれましたが、高橋先輩と一緒に練習して力の差を実感せざるを得ませんでした。世界陸上に出たい、と口では言っていましたが、夢のことと感じていました」

堀江知佳のマラソン全成績
1 2000 4.09 長野 4 2.29.12.
2 2001 8.26 北海道 14 2.49.24.
3 2002 8.25 北海道 1 2.26.11.
4 2003 8.31 北海道 2 2.36.03.
5 2005 8.28 北海道 3 2.29.15.
6 2006 3.12 名古屋国際女子 3 2.28.01.
7 2006 4.17 ボストン 11 2.34.40.
8 2007 8.27 北海道 dnf dnf
9 2008 3.09 名古屋国際女子 5 2.27.16.
10 2009 3.08 名古屋国際女子 2 2.29.09.
11 2010 1.31 大阪国際女子 7 2.28.29.
12 2011 1.30 大阪国際女子 3 2.27.26.
13 2011 11.20 横浜国際女子 15 2.48.47.
14 2012 1.29 大阪国際女子 4 2.28.35.
15 2013 4.21 ロンドン 14 2.35.30.
16 2014 3.09 名古屋ウィメンズ 15 2.32.58.

2008年オリンピックへの強い意思
 故障が多いことも、堀江のマラソン人生を通じての難敵だった。
「高校では故障をしたことが一度もなかったので、当初はどうしていいのかわかりませんでした。こっちが痛い、次はあっちが痛いとなって走ることができず、どんどんデブになってしまいました。見事に悪循環にはまりました」
 それでも、ところどころで“意地”は見せていた。
 21歳時の北海道マラソン優勝もそうだったし、翌2003年の北海道も順調ではなかったが、「前年優勝者として意地で」(堀江)2位と踏ん張った。
 しかし、その後2年間マラソンのスタートラインに立てず、2005年の北海道でなんとか3位に。
「このままでは陸上人生が終わってしまう。なんとかしないといけない」
 同時期に高橋が小出門下から独立した(2005年5月)。
「それまでは高橋先輩の後ろに付いていくだけでしたが、チームを見ても、自分が頑張らないといけないと思いました」
 翌2006年3月の名古屋国際女子では2時間27分16秒で5位と健闘した。長野と北海道以外のマラソンに出場したのは初めてだった。2008年の北京五輪を目指す態勢はできてきていた。
「元々、高校を卒業したときに目指したのが2008年のオリンピックでした。その頃はまだ開催地が決まっていなくて、大阪開催の可能性もあったんです。地元だから頑張るぞ、有森さんを育てた小出監督の下で自分も頑張れば、私もメダルを取れるかもしれない。そういう夢を描いて実業団に進みました」
 2008年オリンピックだけは外せない。競技人生のピークを持っていくつもりで頑張っていた。

北京五輪選考会で「一か八か」のスパート
 しかし、07年の北海道は途中棄権。故障がまた、堀江の行く手を阻んだ。
 北京五輪の選考会は2008年の名古屋国際女子を選んだ。31kmの上り坂でスパートし、トップに立った。集団を引き離しそうな勢いだったが、長続きしなかった。
「一か八かのスパートでした。小出監督から『5分だけ夢を見たよ』って言われましたね」
 オリンピックに手が届かず、堀江の気持ちは切れてもおかしくなかった。ところが、そうはならなかった。
「あのレースで、オリンピックが夢ではなく、手が届く目標と思うことができたのです。私にとっては収穫のあるレースでした」
 その言葉通り、09年の名古屋国際女子で2位、10年の大阪国際女子で7位、そして11年の名古屋国際女子は3位と、上位争いに必ず加わった。コンスタントに2時間27〜28分で走り、自己記録を更新する力は間違いなくあっただろう。
 だが、09年の名古屋国際女子は優勝した藤永佳子がベルリン世界陸上代表に選ばれたが、タイムが低く堀江は代表入りできなかった。11年の大阪国際女子でも優勝した赤羽有紀子と2位の伊藤舞がテグ世界陸上代表入りしたが、伊藤と31秒差の堀江まで日の丸のユニフォームは回ってこなかった。
 堀江にとって“あと一歩”が、遠い一歩だった。
つづく

「以前よりもつらかった」ロンドン五輪への道
 代表に届かなかった要因は、「ケガもありましたし、イメージした動きもできなくなっていた」ことだった。さらに、2011年にはチームの後輩の永尾薫が、アジア選手権1万m代表になるまでに強くなった。かつては高橋に練習で差をつけられて自信を持てなかったが、今度は後輩に勝てなくなった。
「私だって上に行きたかったのに、一緒の練習でふぁーっと前に行かれてしまうんです。つらかったですね。気持ちの悪循環が続きました。オリンピックが夢から目標となっていたのに、以前よりつらくなってしまったんです」
 ロンドン五輪選考会の2011年横浜は15位、2時間48分47秒と大敗した。実質的なワースト記録といってよかった。
 しかしそのときも、堀江は意地を見せた。2カ月後の大阪国際女子で、単独で行なった練習は不十分ながら、2時間28分35秒で4位と好走した。五輪代表には届かなかったが、佐倉アスリート倶楽部のスタッフの目には「あそこまで走れるとは思わなかった。最大限の力を出し切った」と映った。

 堀江のオリンピックへの挑戦は大阪国際女子で終わった。4年後のリオ五輪はさすがに見えなかったのだ。
「今後どうするか、兵庫に帰ってゆっくり考えて出した結論が、競技は2013年いっぱいまで、ということでした。その年のモスクワ世界陸上の代表になってもなれなくても、そのシーズンで終わりにする。2014年からは小学校の先生になるために、短大に行く決心をしました」

目標を“競技の夢”から“人生の夢”に
 ラストランの名古屋ウィメンズは、2012年の大阪国際女子よりも良い練習ができた。12年ぶりの自己記録更新も本気で狙っていたが、競技の女神は最後まで堀江に微笑まなかった。
「今日は沿道にチームメイト、元チームメイトがたくさん応援に来てくれました。こんなに支えられていたんだ、と幸せを実感できました。自己新でゴールして、『やったよー』とみんなに報告できたら良かったんですが、笑顔でゴールができたことは本当に幸せでした」

小出義雄代表コメント
「堀江は“我が道を行くんだ”という図太い神経を持てなかった」
「ここ1本という走りができなかったので代表まで行けなかった。我々にも責任があるが、堀江は周りに惑わされてしまった。几帳面で周りに神経を配る子だったからね。それを乗り切るにはトレーニングしかないんだけど、大きな目標のためには何が何でもやるんだ、周りは関係なく“我が道を行くんだ”という図太い神経を持てなかった。選手の側が我々を『この選手をどうしても行かせてやる』という気持ちにさせるオーラを発せられないと損をしちゃう。我々の側の『この選手をなんとしても』というものが噛み合えば、上手くいくこともある。なかなか1人だけを全力で見てあげることができないけど、堀江はもう少しきめ細かく見てあげられたらよかったかな。ある程度のものは持っていたからね。でも、よくやったよ。人間、最後という気持ちでやれば堀江みたいにやれる」

 小出代表も示唆しているように、スポーツは運にも左右される。それも実力かもしれないが、運やタイミングに恵まれた選手と、恵まれなかった選手がいると個人的には感じている。
 だが、どんな結果に終わっても、全力を尽くせば必ず得られるものはある。それによって充実した人生を送ることは、勝利よりも尊いと思う。

 堀江はすでに千葉県内の短大に合格しており、4月には33歳の女子短大生が誕生する。教員になるという目標に向かって、第二の人生のスタートラインに着く。
「私がもしもオリンピックに行けていたら、頑張ったら必ず夢は叶う、と言える先生になれたかもしれません。今の私には、それを軽々しく言うことはできないんです。でも、叶わないかもしれないけど、頑張ることの大切さを教えることはできます。そこだけは誰にも負けない先生になりたい」


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