2014/3/2 びわ湖マラソン
兵庫雑草ランナーシリーズA
東アジア大会ハーフマラソン金メダリストの家谷がラストラン
「今日、2時間5分台で走っても満足はしなかったと思います」

「マラソンは難しかったですね」
 家谷和男(山陽特殊製鋼)はそう言い残して現役生活にピリオドを打った。2時間28分40秒で122位。36歳に余力は残されていなかった。
 姫路商高出身で、兵庫県だが西脇工高でも報徳学園高でもなかった(※カコミ参照)。
 高校から地元の山陽特殊製鋼に入社して力を伸ばし、6年目の2001年東アジア大会ハーフマラソンに優勝。同チームのエースとして長く走り続けてきた。その間には、陸上部が縮小されて予算も削られたりもしたこともあった。

 東アジア大会に出場した01年2月の東京国際が初マラソンで、2時間12分37秒で6位。スピードもあり(1万m自己記録は28分13秒83)期待は大きかったが、その後はマラソンで満足のいく走りができなかった。
 マラソンのレース間隔が空くこともしばしばあった。
「ケガをしていたわけではありませんが、上手く行きませんでしたね。マラソンから離れて駅伝やハーフを頑張って、またマラソンに挑戦したりしましたが、適性がなかったんでしょう。ハーフまでは体をコントロールできるのですが、マラソンではそれができなかった。(ハーフマラソンのスピードが)マラソンにつながりませんでした」
 13回のマラソン歴となったが、ついに初マラソンの記録を更新できなかった。

 しかし、マラソンを目指した競技生活に悔いはない。
「駅伝のためだけだったら、ここまで走り続けられなかったと思います。マラソンでどうしても納得できる走りをしたい、という思いが走り続ける支えとなりました。それは、今後の人生の糧となります」

 13年前の東アジア大会では、女子ハーフマラソンの野口みずき(シスメックス)とアベック優勝だった。
「当時は“ハーフの女王”でしたからね。あそこまでなるとは思っていませんでした。僕だったら日本記録を出したり金メダルを取ったら、早々に引退しますけど」と、家谷らしい言い方で“金メダリスト同期”をたたえた。
「本当に、彼女には頑張ってほしいです」

 18年間の実業団ランナー生活となったが、やりきった感はないという。
「人間は欲深いですから。仮に今日、2時間5分台で走っても満足はしなかったと思います。競技者である以上、満足はしません」
 野口についてのコメントと矛盾するが、家谷の中では整合性がとれているのだろう。酸いも甘いも経験してきたランナーは、取材に答える1つ1つの言葉に味わいがあった。
 4月からは「サラリーマン生活を頑張りますよ」と明るく話す。どんな仕事をするのか興味が持たれるところだ。いずれセカンドキャリアの記事が、神戸新聞に載るのではないかと期待している。

家谷の高校時代の兵庫県
 家谷が3年時には西脇工高が前田泰秀、報徳学園高が高橋謙介というビッグネームがエース。
 特に西脇工高は前年が小島忠幸、木庭啓、石本文人がいて、家谷3年時には前田、黒田豊和、岡田展彦が3年で、1年生に奥田真一郎というメンバーで全国高校駅伝2連勝。翌年は高橋謙介の報徳学園高が優勝した。
 家谷と同じ学年で神戸甲北高出身の坪田智夫(03年世界選手権10000m代表。現法大監督)は、「西脇の選手だったら4番目以下でも誰でもいいから勝ってやろうと挑んでいた」という。
 3年時のインターハイ路線は西脇工高3人と、報徳学園高2人、坪田で兵庫県大会5000mの6位までを占め、その6人がそのまま近畿大会の1〜6位となって全国大会に出場した。
 家谷は駅伝でも兵庫県大会3位だったが、1区で西脇工高、報徳学園高と激戦を繰り広げ、区間1位の西脇工高から5秒差の区間3位だった。


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