2013/9/8 日本インカレ
全カレちょっと感動した話題特集
D無名ランナーが5年間、夢を持ち続けられた理由は?

 初の全国大会決勝にも斉藤和輝(一橋大4年)は臆するところがなかった。大会3日目の男子800 m。斉藤は200 m付近で先頭に立ち、400 mで川元奬(日大3年)に並ばれるまでトップを走り続けた。
「ラストスパートには自信がないので、早めに仕掛けるしか勝機はないと思っていました」
 最後は最下位(1分54秒31)まで後退したが、全カレの決勝を走るために留年した男は清々しく振り返った。
「夢と思い描いてきた全国大会の決勝の舞台に5年越しで立てて、(準決勝を通過した)昨日は舞い上がったというか、本当に嬉しさに包まれた時を過ごしました。でも、決勝では力の差を思い知らされて、もっと強くなりたいと思いました」

「OBの期待が大きくてプレッシャーはありましたね」と笑顔で話す斉藤。歴史のある大学だけにそういう部分もあったが、留年までして陸上競技に懸けてきたのはもちろん自分の意思である。
「インターハイで全国まで行きましたが予選落ちでした(札幌北高時代のベストは1分55秒43)。まったく通用しなかったのが悔しくて、大学でも競技を続けることにしたんです。全国大会の決勝で走りたかった」
 しかし、全カレの壁は厚く、1〜2年時は出場することすらできなかった。3年時は予選で1分52秒12で走ったが準決勝にも進めない。昨年は3着+3の予選で1組4位(1分53秒74)となったが、3位の選手に0.17秒届かず涙を飲んだ。
 4年間で準決勝にも進めなかったにもかかわらず、決勝の舞台を夢見て留年を決断した。大学院進学も考えたが「2年間チャンスを与えるのでなく、1年と決めて、結果を絶対に出すんだと自分に言い聞かせました」と言う。

 しかし、“悔しさ”だけをモチベーションに多感な学生時代を過ごすことができるのだろうか。インカレ上位校とは違い、周りは“普通の学生”の活動の範囲内で競技に取り組んでいる。研究や卒論などにもエネルギーを使わないといけないだろう。その環境で全カレでは準決勝にも進めない。競技への目的意識が薄くなるのが普通ではないだろうか。
 幸運だったのは高校時代に岡昇平(和歌山陸協。順大3年時に1分47秒66)のいた札幌国際情報高と先生同士のつながりがあり、斉藤も同学年の岡と練習する機会があった。そして大学では荒木久美、山下佐知子(現第一生命監督)、市川良子、市橋有里らの五輪選手を育てた浜田安則氏が一橋大の指導に関わっていた。高い意識レベルの人間と接点を持てたことで、斉藤の意識も高くなったと推測できる。
 そして何より、家族の励ましがあった。
「両親がずっと応援してくれました。今年の4月に亡くなった父が、全国大会の決勝を走れと言い続けてくれたんです。(続ける決断の)最後はその一点でした。そこは譲れない部分として、自分のなかにあったんです」

 今季は東京選手権で、昨年のインターハイ優勝者の三武潤(日大1年)、松井一樹(J .VIC)に続いて3位となり、日本選手権に初出場(一橋大選手では14年ぶり。1999年以来でそのときも男子800m)。予選1組4位で決勝には進めなかったが1分50秒96の自己新で走り、岡にも0.11差まで迫った。
 斉藤に触発されて1分52秒台を出す後輩も現れ、インカレ上位校の練習に参加する機会にも恵まれた。充実したトレーニングを積んで日本インカレに臨むことができたのだった。
 そして夢だった決勝進出を果たしたが、冒頭のコメントにある通り、そこで感じたのは“悔しさ”だった。
 卒業後は北海道に戻って銀行員となるが、競技も継続する。
「市民ランナーとして800 mを走り続けます。やるからには趣味ではなく、自己新を目標に走るつもりです。次は全日本実業団で上を狙いますよ」
 斉藤が続けるモチベーションは学生時代と同じで“悔しさ”が出発点かもしれないが、そこに新たな何かが加わらないと社会人生活で自身を追い込むことはできない。それが何になったのか、来年の全日本実業団で聞いてみたい。

800 m決勝後に一橋大の先輩である川村庸介記者(中日スポーツ)の取材を受ける斉藤。川村記者は紙面で「記者時々ランナー」の連載を持ち、記者生活11年目の現在もマラソンの自己記録を更新し続けている。本文中、斉藤の最後のコメントは正確には「やるからには趣味ではなく、川村先輩のように自己新を目標に走ります」だった


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