2013/10/7 東京国体5日目
国体スペシャル
地元国体に懸けた女部田亮
“輝けなかった”スプリンターの思い


 特定することなどできるはずもないが、2013年の国体で一番複雑な思いをしたのが女部田亮(東京・中大4年)だったかもしれない。
 飯田橋で育った生粋の東京っ子は、国体に特別の思いがあった。
 中大の先輩でもある川面聡大(ミズノ)がいたため個人種目の100mに出場することはできなかったが、陸上競技人生最後となるかもしれない大舞台に「リレーで絶対に優勝する」という強い意気込みをもって臨んでいた。

優勝確実のはずが、まさかのバトンミス

 男子4×100 mRは最終日の最終種目。1つ前の女子4×100 mRで2位となり東京の45年ぶり天皇杯獲得は決定したが、最終種目も勝って花を添えたいところ。
 東京は1走に女部田、2走に成年男子100m優勝の川面、3走に少年A100m5位の林謙太郎(八王子高)、4走に少年B200m優勝の大嶋健太(東京高1年)。期待に十二分に応えられる布陣といえた。予選で39秒41、準決勝で39秒13と大会新(=都道府県国体編成チーム日本最高)を連発していた。
 決勝でも女部田は得意のスタートダッシュで飛びだし、大きくリードしてバトンをパス……しようとしたが、2走の川面にバトンが届かなかった。優勝候補の地元チームがオーバーゾーンで失格し、スタンドでは悲鳴とため息が交錯した。
 無念の思いでいっぱいだったはずだが、女部田は冷静に振り返った。
「予選、準決勝と安全に行ったなかで良い走りとバトンができて、決勝も同じように安全に行ったはずなんです。僕のなかでは最後までしっかり走れていました。川面さんのダッシュが良くなりすぎていたのだと思います。1・2走のコミュニケーション不足です」
 女部田が懸けていた地元国体は、東京チームとしては天皇杯獲得という最大の目的を達成したが、女部田個人としては痛恨の結果に終わった。
 涙こそなかったが、例えようのない思いが心中に渦巻いていただろう。

国体のリレー優勝が陸上競技人生の第一歩
「僕の陸上競技人生は国体で始まったと言ってもいいくらい。高校(東京高)から陸上を始めて、1年生の秋田国体に出場して、いきなりリレーで優勝することができました。新井(智之)さんや小林(雄一)さんとメンバーを組ませてもらい、陸上のことを何も知らなかったのに、先輩たちが雰囲気を作ってくれて、それに乗せられて結果を出せた。陸上に目覚めさせてくれたのが国体でした」
 翌年には少年A100 mに優勝。インターハイ100 m・200mを制した本塩遼(那須拓陽高。現富士通)らを抑え全国大会初制覇を成し遂げた。女部田にとって国体は特別な思いを持つ大会となった。

学生個人選手権2連勝も、トップ選手とは異なるメンタリティーに
 だが、高校最高学年となった2009年のインターハイは、1学年下の九鬼巧(和歌山北高。現早大3年)が優勝し、中大で一緒になる飯塚翔太(藤枝明誠高)が2位。V候補筆頭とも言われた女部田は3位に甘んじた。同年の国体少年A100 mは飯塚が優勝して九鬼が2位、女部田は5位と敗れた。
 中大入学後もインカレ個人タイトルには届いていない。自己記録は東京高時代が10秒46、中大1年時に10秒42とすぐに更新したが、そのタイムを大学2年、3年と破れなかった。
 ただ、6月の日本学生個人選手権には強く、昨年、今年と2連勝している。タイムも昨年が10秒46(+1.6)、今年は10秒30(+1.4)と自己記録を大きく更新した。
「追い風参考で10秒2台、3台はあったのですが、初めて公認で10秒3台が出せて嬉しいです。大会前の目標はタイムよりも、自分の走りをすることだったんですが、それができた結果の自己新でした。今日が(競技人生で)一番嬉しいかもしれません」
 しかし、そのときの女部田は卒業後に陸上競技は続けないつもりだと話していた。正確には「卒業後のことはわからない」という言い方だったが、一般企業に就職活動をしていた。自身の競技力を客観的に見つめていたのだろう。
「僕は日本選手権で決勝に残っていない選手なんです。10秒2台、悪くとも3台を安定して出せないと実業団では続けられません。(同学年の)飯塚の活躍は同期として嬉しいですね。ライバルというよりも応援したい選手。世界陸上ではメダルを取ってほしい。飯塚をサポートし、後輩たちを引き上げるのが僕の役目です。今年後半の目標は日本インカレでしっかり表彰台に乗ることと、国体のリレーで優勝することです」
 トップ選手に多い高みだけを見つめるタイプではなく、どちらかというと一般人に近い感覚の選手になっているようだった。

大活躍の東京高スプリンターたちの先陣
 個人では代表レベルに成長できなかったが、女部田に続いた東京高のスプリント陣は、今や日本短距離界の一大勢力になっている。
 女部田が卒業して2年後の2011年には男子4×100 mRでインターハイを制し、秋には40秒02の高校新(当時)をマークした。そのときの2走だったケンブリッジ飛鳥(日大2年)と3走だった猶木雅文(中大2年)が大きく成長。今年の日本選手権では2人とも決勝に残りケンブリッジが6位、猶木が7位。日本インカレでは猶木が優勝してケンブリッジが2位、関東インカレではケンブリッジが2位で猶木が3位と接戦を続けている。
 女部田の1年後輩の原洋介(日大3年)も今季、20秒96と21秒を切ってきた。
 女子では藤森安奈(青学大1年)が日本選手権100mで5位となり、アジア選手権4×100 mR2位(4走)に。関東インカレ優勝、日本インカレ2位と、故障を克服して学生トップレベルに定着した。
 東京国体4日目の夜にはケンブリッジが、東アジア大会(中国・天津)で飯塚を抑えて優勝した一報も飛び込んできた。
 東京高指導スタッフの尽力による結果だが、先陣を切った女部田の功績も大きかった。

「僕の競技人生を象徴しています」
 女部田は秋シーズンの最初の目標だった日本インカレは100 mで3位。しっかりと目標を達成した。優勝は九鬼で2位が飯塚。2009年の奈良インターハイと上位3人は同じ順位だった。1、2位の差は0.02秒で奈良インターハイとまったく同じ。表彰を待つ間に3人でそういった話をしたという。
 その日本インカレ期間中に、2020年のオリンピック東京開催が決まっていた。ロンドン五輪代表2人に次ぐ順位に、女部田は何を思っただろうか。
 そして地元の東京国体で、優勝確実と自他共に認める状況にありながらバトンパスの失敗で失格した。
「今後どういう形になるにしろ、競技生活7年目の国体が節目になると感じていました。先輩たちに乗せてもらって優勝したのが6年前。今は反対に、高校生たちを優勝させてやりたいと思って臨んだ国体でした。(その国体で今回の結果は)僕の競技人生を象徴していますね。高3のインターハイがそうだったように、本当に大事なところで取れない。一番輝ける舞台で輝けない。残念、不甲斐ない……なんて言ったらいいのか……切ないですね」
 卒業後の進路については、誘ってくれている実業団があるという。一般企業(有名企業)の内定も得ているが、ここに来て進路を決めかねている。
「一般企業に行っても走り続けたいと思っていますが、陸上競技優先にはできません。どうするか迷っています。今日の悔しさをリレーにぶつけたい、こういう場に戻ってきたいという思いも出てきました。速い人たちともっと勝負をしたい。そういう世界に挑戦したい気持ちもあります」
 失格したその日の、女部田の偽らざる心境である。日本学生個人選手権のときとは違い、スポーツ選手らしい思考になっていた。
 ただ、失格の直後ということで神経が高ぶっていたのは間違いない。冷静になった女部田がどういう判断をくだすか。

「輝けなかった」と女部田は話したが、誰よりも強い気持ちで臨んだ地元国体が“くすんだ思い出”となることはない。女部田がどんな判断をしても、どんな人生を歩んだとしても、東京国体は“忘れ得ない大会”として色褪せることはないはずだ。


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