2012/7/16 ロンドン五輪直前
連続メダルに挑む4×100 mRのリーダーが
「“チーム高平”になってはダメなんです」と言う理由は?
ロンドン五輪の4×100 mRメンバー最年長は、7月18日に28歳になる高平慎士(富士通)である。男子短距離全体でも最年長。アテネ五輪のあった2004年以降、五輪&世界陸上&アジア大会のすべてに代表入りしている。4×100
mRは不動の3走として大阪世界陸上の5位(38秒03のアジア新)、北京五輪の銅メダル、ベルリン世界陸上の4位と実績を残してきた。
北京五輪が“チーム朝原”なら、ロンドン五輪は“チーム高平”。そう言われることに違和感、抵抗感があるか? という質問が6月28日の富士通代表選手会見後のカコミ取材時に出た。
「…ありますね」
ほんの一瞬の間があったが、高平はきっぱりと答えた。
「北京五輪のチームは100年に一度あるかどうかというチームで、朝原さんのためにあったと言うこともできたと思うんです。でも今後は、そういう特殊なチームで戦うのではダメだと思います」
アテネ五輪は土江寛裕、末續慎吾、高平慎士、朝原宣治のオーダーで五輪最高の4位に入った。
朝原は1993年に日本人初の10秒1台(10秒19)、98年に初の10秒0台(10秒08)をマークした100 mの“パイオニア”。96年のアトランタ五輪から北京まで、4大会連続五輪代表入りした。100 mのベストは10秒02。
末續は200m日本記録(20秒03)保持者で、2003年のパリ世界陸上では銅メダルと、日本短距離史上に残る金字塔を打ち立てた。100 mのベストは10秒03。
高平は02年の世界ジュニア、03年のユニバーシアードと文字通りリレー要員だったが(個人種目には出場していない)、大学2年の04年に大きく成長して200mでも代表となった。200mのベストは2009年に出した20秒22(日本歴代3位)。
土江はスタートが武器。早大4年時のアトランタ五輪に出場し、アテネで8年ぶりに五輪代表入りした。短距離に限らず1大会置いて五輪代表入りする選手は珍しい。リレーに対する思い入れも強く、10秒21の記録以上の存在感があった。
土江が引退して、代わりに塚原直貴が2006年から代表入り。朝原は06年は休養に充てていたが、07年の大阪世界陸上で塚原・末續・高平・朝原のメンバーで、アジア新で5位入賞を果たした。
メンバーの実績に加えて朝原の存在感が求心力となっていた。前述のように日本の100
mのレベルを押し上げた選手。単身でドイツに留学し(そのときは走幅跳選手としてだったが)、手術を経て復活し、シドニー五輪後にはアメリカに留学した。
リレーでは4走を走り続けてきた。
最初のアトランタ五輪はバトンミスで始まった(3走の井上悟と4走の朝原でバトンが渡らなかった)。手術をした影響でシドニー五輪はリレーだけの出場だったが、6位入賞にアンカーで貢献。そしてアテネでの五輪最高順位。個人種目で末續がメダルを獲得していたが、男子4×100 mRでの4位も、一昔前には考えられなかった快挙だった。
朝原はバトンを持つと速い選手で、加速付きの走りなら世界のトップと遜色ない走りができた。その朝原が日本が強くなる過程に長年関わってきたことで、日本チームには「アンカーに朝原さんがいるから」という安心感が生まれた。
4×100 mRはバトンパスの技術を磨くことによる自信、バトンパスを行う者同士の信頼感、そしてチームの要となる選手への安心感で、バトンパスが速くなる。一か八かの賭けではなく、自信と安心の裏付けがあるから思い切り飛び出せるのだ。
その朝原が地元の世界陸上を花道に引退しようとしていた。当時35歳。だが、現役続行を望む声が多かった。朝原自身も肉体的に大きな衰えは感じていなかったし、色々と感じるところもあった。そして、北京五輪まで現役を続行すると決断した。
高平は当時を振り返って次のように話した。
「朝原さんが“北京が最後”と明確に線を引いていた。あのときのチームには“朝原さんのために”という部分が少なからずありましたね。色々なことが重なって銅メダルという結果になりましたが、あのメンバーで、アンカーがあの人でしたから」
でも、と高平は続ける。
「ジャマイカは“チーム・ボルト”じゃありませんよね。アメリカも“チーム・ゲイ”じゃない。本当に強い国は、そうなったらいけないんです。誰が走っても強いチームになるのが目指す方向です。それに、僕はロンドンを最後にするつもりはありませんし(笑)」
もちろん、北京五輪で銅メダルを取った経験を、今のチームに生かすのは大前提である。
「経験者が半分くらいは残らないと、チームとしての方向性などが残らない。全員が初出場だと厳しくなるんですよ」
自身では何もできなかったアテネ五輪のことが頭にあるのだろう。数日後に本サイト掲載予定のウィグライプロ・タイアップ記事で上記のように話した。
高平は地元スポーツ紙にも次のように語っている。
「北京で朝原さんは“背中”でぼくらを引っ張り、多くを教えてくれた。自分も今回、自分らしい走りで、そういう存在になれれば。今回も3走は譲るつもりはない。(五輪での)勝負の仕方も分かっているつもり。自分が(3走を)走ることでチームに安定感を与えたい」
詩的な表現をよくする選手である。
「僕だけでも“夢の続き”をロンドンで見てみたい。今度は、若い選手たちと一緒に」
高平は「北京を第2段階にしないといけない」という見方を示した。北京五輪以前の、日本が強くなっていく時期が第1段階。メダルを取った北京五輪が第2段階。
「第3段階は誰が、どこを走っても世界で通用するチームになることです。メンバーを固定してメダルが取れて良かったです、で終わったら意味がない。そのためは個々の走力を上げないとダメですが、僕が1走に行っても、それが普通に思われるチームにならないと」
北京五輪の銅メダルを取った事実が伝統になるのではなく、日本のリレーの伝統がまず存在し、その伝統が定着して力を発揮していく過程に北京の銅メダルがあった。伝統の力があるから次々に選手が育ち、日本がメダルの常連になる。
リーダー自らが“チーム高平”を否定した理由はそこにある。
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