2012/5/13 関東インカレ2日目
本塩が400mで学生初タイトル
4年前のインターハイ2冠スプリンターが涙の復活劇


@3年間苦しんだ末に転向を決断

●師弟の涙
 男子1部400mのレース後にミックスゾーンに行くと、本塩遼(城西大4年)と土江寛裕監督が握手をしているところだった。多くを語らずともお互いの気持ちはわかっている。そんな雰囲気があった。
 土江監督の目には涙。
「監督の涙を初めて見ました。(4×100 mRで4位と健闘してレース後のインタビューで感涙を流した)アテネ五輪は見ていますが、城西大に入ってからは初めてです」
 そう言う本塩の目も潤んでいた。
「本当にもう感謝のひと言です。(こんな自分でも)ずっと面倒を見てきてくれました。恩返しがやっと、少しできたかなと思います」












●「陸上をやめたいと思ったことも」
 土江監督は五輪代表2回(96年と04年)の元トップスプリンターで、2007年に城西大監督に就任した。2008年のインターハイ100 mと200 m2冠(※)の本塩は、初めて預かった高校チャンピオン。なんとしても、しっかり育てたい選手だった。※同年の日本ジュニアも2種目を制し、そのときの10秒36(+0.8)と20秒88(+1.3)が自己ベスト。
 1年時(2009年)5月の関東インカレはまだ良かった。100mは10秒55で6位、200mは20秒88の自己タイで4位。200mの上1〜3位は安孫子充裕(筑波大→ミズノ)、齋藤仁志(同→サンメッセ)、小林雄一(法大→NTN)で、安孫子と齋藤は前年の北京五輪代表で、小林も2011年には世界選手権代表となった選手。そうそうたるメンバーのなかで健闘した。

 だが、その年9月の日本インカレは100mにエントリーしていたが欠場した。
 大学2年時(2010年)は4月の出雲陸上100mは10秒59(±0)で優勝。その年絶好調だった藤光謙司(ゼンリン。当時セーレン)を抑えたが、関東インカレ100mは54秒75(−0.4)で8位。日本インカレは13秒39(−3.4)でやはり8位。
「関東は準決勝でケガをして、決勝は(得点のため)歩きました。日本インカレは江里口(匡史・早大。現大阪ガス)さんと互角に戦えていたのですが、途中でケガをしてしまって…」
 3年時はもっとひどかった。「年間で2試合」(本塩)にしか出場できなかったのだ。
「右脚のハムストリングをやることが多かったです。1年の時よりも2年の時の方が多くなり、2年よりも3年が多くなりました。昨年は1年間で4回もやりました。どうしたら良いかわからなくて、陸上をやめたいと思ったこともありました」
 インターハイ・チャンピオンの名前が、いつの間にか聞かれなくなっていた。

●練習への適応とフォーム変更の成功
 ロングスプリントへの転向を決断したのは昨年10月だった。
「100mができないわけではありませんが、あまりにもケガ多く、気づいたら残り1年になっていました。気持ちを入れ換えるためにも、200m・400mに取り組んでみようと決断しました」
 11月から400 mブロックで冬期練習を始めた。城西大には400 mHの48秒台ハードラーである千葉佳裕コーチもいる。
「適応力はあったかな、と自分でも思います。以前は300 m×3本を何セットとという練習はできませんでしたが、450+350+300とか、400+300+200などのセット練習も、やると決めてからはできるようになりました。400 mブロックの練習を引っ張るポジションになれたと思います。自信があったわけではありませんが、やり始めたら自分に向いているかもしれない、と感じました」

 ロングスプリントに転向するのと同時に、フォームも変更した。
 以前の本塩は前傾が大きく、腕振りは外側に開いていた。脚の動きは「後ろで回していた」(本塩)。それを上体を立て、脚を前で回転させるようにした。俗に言うところの“前さばき”である。動きが完全に変わったわけではないが、以前とは明らかにとは違っていた。
「大学に入って環境が変わり、筋肉や体つきも変わりました。上体も起こして走るようになったのに、高校と同じように後ろで回して走ろうとしていたんです。それがケガにもつながったのだと思います」
 その動きも、ロングスプリントの練習をするようになって矯正できた。
「その辺もすぐに適応できました。そこばかり意識しなくても、練習で自然と身につきましたね」
 本塩はある程度の手応えを感じて2012年のシーズンを迎えていた。

Aロンドン五輪へ本気モード

●400m3試合目でのタイトル獲得
 関東インカレは400 m3試合目だった。初400 mは4月14日の岩壁杯で49秒76の2位。雨と強風の中での試合でタイムが伸びなかった。2試合目は4月28日の日体大競技会。48秒70と関東インカレのB標準を切ることができた。
「関東インカレ出場者の中で、記録は下から3番目。千葉コーチに話を聞いたり、練習で展開をイメージしていますが、自分の中では400 mのペース感覚もまだ確立できていません」
 関東インカレの決勝は、3つ外側の長島正憲(日体大4年)について行く形で前半を走った。200mでは並んでいたが、300 mまでで半歩リードした。ホームストレートで長島に並ばれたが、勝負強さを見せて同タイム(46秒79)ながら先着した。
 勝ったことは評価できたが、本塩が力を出し切ったとはいえなかった。「テンポ走のようでした」とレースの印象を話すのは土江監督。本来のスピードを生かした走りではなかったのである。
 その辺は本塩本人も理解している。
「今回は400 mよりも200mを狙っていました。練習も200 mを意識した内容。(400 mは)プライドを持って走ったというより、普通に走れたらタイムはどうでもよかった」
 ただ、今回のタイトル獲得で、本塩本来の勝負魂に火がついたようだ。
「日本選手権の標準記録を切ることができたので、日本選手権は狙って走ります。45秒台を出せたらオリンピック(のリレーメンバー)も見えてくる。45秒台を目指します」

●精神的にタフな選手に
 本塩の今後が期待できるのは、苦しんだ3年間を経て、精神面でもたくましくなったからだ。昨秋のロングスプリントへの転向も、土江監督が強制したのではなく、本塩自身が考え抜いて決断した。土江監督の指導自体、選手の自立をうながすスタイルだ。
「入学した当初は100 mで“10秒0台を出したい、オリンピックに出たい”と考えていました。それが“自己新を出したい”になり、やがて“脚が痛まずに走れればいい”になっていたんです。目標がだんだん下がっていることに気がついたときはもう遅かったというか、“そんなんじゃ速く走れないし、ケガもしてしまうだろうな”と気づきました」
 そんな気持ちと決別するためにも、新しいチャレンジをすべきだと判断した。残り1年。100 mで結果を出すには遅かったかもしれないが、200 m&400 mならなんとかなるかもしれない。そう考えて練習に取り組むうちに、光明が見え始めた。
「とにかく新しいことにチャレンジしたい。その気持ちが強かったですね」
 種目は違うが、大学3年まで低迷した選手が復活した前例は複数ある。伊東浩司しかり、為末大しかり。伊東は大学4年時に東京世界選手権4×400mR代表となり、為末はシドニー五輪代表となった。一度どん底を見た選手は、心の軸がぶれないのだろう。復活した後に、小さな波はあっても大きく沈むことはない。

●200 m棄権の経緯
 関東インカレ2週目の200 mは欠場した。メインと位置づけていた種目。故障再発かと心配されたが、土江監督は「故障を回避するためです。日本選手権は400 mに絞りました」と説明する。
 最終的に欠場を決めたのは、レース当日の昼頃でアップも行なっていた。土江監督によれば200 mレースの日は絶好調だった。「恐ろしく記録が出るんじゃないか」と土江監督は感じたが、そういうときにこそ故障をする落とし穴がある。
「このことは1週間悩み続けました。本塩はこれまで完璧な身体の状況で、本当に勝負しなければならないレースのスタートラインに立ったことがありません。1%でもケガをするリスクをとるのではなく,現在の絶好調の状態で、日本選手権のスタートラインで勝負させたいと思ったのです」
 本塩本人はキャプテンでもあり「走りたい」と訴えたが、今回だけは土江監督が説得した。
「最終的には本塩も、僕のことを信頼して納得してくれました」

 4×400mRの代表は本人も言うように45秒台での争いとなるだろう。そのレベルで走れるかどうか。客観的に見れば未知数の部分の方が大きい。だが、本塩の持っているスピードと勝負強さは400 mでも武器となる。
 何より、気持ちの部分が期待できる。走れるようになった喜びと、そのことに対する感謝の気持ち、そして新しいことに取り組んで生じている前向きな姿勢。番狂わせが起こる可能性はある。

■土江寛裕監督コメント
「自信はありました。100mの10秒2〜3台を意識しながら400mも走れる。両方の練習ができていたので自信はあったんです。しかし軸脚は200mに置いていましたし、46秒79まで行けるとは思っていませんでした。400 mは関東インカレ決勝が5本目で、まだ下手くそですね。レースでもまれたらもっと力を発揮できる。前半からもっと行けますよ。速い流れに乗ってついて行けるタイプです。後半がどうなるかわかりませんが、可能性は秘めている。ポテンシャルからしたら日の丸をつけておかしくない選手。(陸連スタッフとして)日の丸の選手を見ていて、本塩も低迷させている場合じゃないと思っていました。日の丸をつけて初めて、ケガを克服したといえるでしょう。これから取り返します」


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