2011/12/25 全国高校駅伝
倉敷が岡山県勢過去最高の2位に
2時間05分13秒も岡山県最高記録
トラックの全国大会入賞者なしでの快挙


 上位校には全国大会の入賞者が必ずいる。全国高校駅伝では当たり前のことだが、今大会で2位に入った倉敷は全国大会入賞者がいない布陣だった。インターハイは1区の徳永照、3区の馬場翔大、4区の藤井孝之が出場したが、3人とも予選を突破できなかった。国体少年A5000mで徳永が10位に入っているのでエースには違いないが、5000mで14分10秒台の選手は1人もいない。5000m平均タイムは14分38秒43で参加47校中10番目。高速化した高校駅伝で上位を争うには明らかに不利だった。
 その陣容でどのくらいの順位を目標にしていたのか。
 勝又雅弘監督は「9、10、11番だと思っていました」とうち明けた。「一歩間違えば7番か8番もある。(良い方に)間違えすぎてしまいましたね」
 最初は謙遜かとも思ったが、取材を進めているうちに勝又監督は本気でそう思っていたことがわかってきた。
「全国2位のチームではなかったですよ」
 そんなチームがどうして、この結果を得られたのか。

 1番の理由に挙げられるのが1区・徳永が区間3位と快走したこと。それも直前のケガで出場が危ぶまれたが、それがかえって「チームを結束させた」(勝又監督)という。
 徳永が左足くるぶしの下に痛みを感じたのは、京都に移動した木曜日の朝だった。「京都入りしても散歩、散歩」(同監督)という状態だった。前日の朝も勝又監督は徳永を外すオーダーを考えていたが、最後の調整練習で「きちんと走れました。朝練習などでは痛みがありますが、体が温まれば痛みを感じません」(徳永)という状態まで回復した。その練習後に選手たちが話し合い、徳永の1区起用が決まったという。
 徳永の「ここに来るからには走ると決めていました。今の状態よりも悪くても1区は自分」という思いを、チームの3年生たちが後押しした。

 1区がスローペースで始まったことも倉敷には幸いした。「徳永は元々後半型。最初は抑えて、第2集団で行くつもりでした」(勝又監督)。それが5km通過が15分14秒というスローペースだったため先頭集団で走ることができた。
 最初は「ビックリした」と言う徳永だが、「無駄な動きをしなくてすみましたし、もめ合うこともなく、体力を温存してついて行くことができました。そのなかで後半に入り、ラストで上げることができました」と振り返る。
 30分01秒で区間3位。トップの九州学院から23秒差で2区に中継することができた。

 徳永が作った流れで倉敷は上位でレースを進めることができた。その流れのなかで3区の馬場と4区の藤井と、中盤の3年生2人も快走を見せた。
 2位でタスキを受けた馬場はディランゴ(世羅)とマイナ(青森山田)の留学生2人に抜かれて4位に落ちたが、自分のペースを乱さなかった。5.5km付近で九州学院を抜いて3位に上がると、マイナとの差を5秒にとどめた。24分00秒で区間3位。日本選手では最高タイムだった。
 藤井は23分38秒で区間2位タイ。5km手前で青森山田を抜いて2位に浮上した。

 結果的に、インターハイに出場した3年生トリオがしっかりと走った。この3人は1年時から全国高校駅伝に出場。1、2年時は徳永が連続4区(区間14位・区間18位)、馬場は連続3区(区間34位・区間14位)、藤井が連続6区(区間8位・区間7位)。
「去年は10位でしたが、入賞できたはずのチーム。3人が足を引っ張りました。去年の先輩にも恩返しができました」と勝又監督。
 その学年が最上級生になったとき、全国高校駅伝の目標を「3位以内」と決めた。7区を務めたキャプテンの日下粛基が説明する。「正直、そこまでの力はないと思っていましたし、チームがばらばらになったときもありました。恥ずかしいので言わないようにしていたんです」
 今年の3年生はまた、「一番怒られた学年」(日下)でもあった。「自分で行動ができないところだったり、練習以外のところで色々と怒られました。“最悪の3年生”と言われたこともありました」
 勝又監督は「生活面での注意がほとんどです。寮生活をしていますが、スリッパが揃っていなかったり、掃除ができなかったりと、誰でもできることをきちんとできないと、大きな大会では勝負できません」と説明する。
 選手たちに全国大会の経験は蓄積されていたし、精神面も鍛えられてきた。レース前日には「監督から『オマエらは今までで一番怒られた学年だが、今までで一番の結果を残して終われ』と言われていたんです」と日下は明かした。

 34年連続出場の間に、有形無形に蓄積されたノウハウもあっただろう。トラックの全国大会入賞者はいなくても、潜在的には上位を争う力があったといえるのではないか。それが駅伝直前の徳永のケガをきっかけに形となって表れた。
「徳永がケガをしていなかったら7〜11番でした」と勝又監督は繰り返した。「大砲はいませんし、総合力で勝負するしかないチーム。徳永のケガを6人で取り返そう、特に3区と4区でカバーしようという気持ちが強くなった。力ではなく、チームの絆で2位になったんです。理想の駅伝ができたと思います」


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