2009/3/16 高岡寿成引退表明会見
高岡本人からの引退表明挨拶
「自分の理想とする練習、理想とするマラソンができない」
「このたび、第一線から退くことにいたしました。
走ることが好きで始めた陸上競技を、中学のクラブ活動からこれまで26年間という長い間、めいっぱい、走ってこられたかな、と思っています。勝つことの喜びを味わいましたし、負ける悔しさも味わった陸上競技生活でした。
中学、高校、大学と歳を重ねるにつれ、目標や夢が大きくふくらんでいきました。カネボウに入社する頃には、オリンピックで金メダルを取りたいとか、世界で一番になりたいという思いを持てるようになり、挑戦して来ることができました。
しかし、その目標に向けてやってきましたが、自分の理想とする練習、理想とするマラソンができないことを感じ、引退することを決意いたしました。
結果として、かなわなかった部分もありますが、精一杯世界に挑戦してきたという意味では、自分自身、非常に良い競技人生を送れたんじゃないかと思っています。
最後になりますが、ここまで長く競技を続け、世界に挑戦し続けて来られたのも、伊藤監督をはじめ、私にご指導してくださった各先生方、また、多くの声援を送ってくださった方々のおかげだと思っています。そして、チームメイトに対しても、僕が楽しく長く、競技を続けられたという意味で感謝をしています。
今日は本当にありがとうございます。今後もまた、ご指導していただきますよう、よろしくお願いします」
記者会見時の一問一答
「31歳までトラックをしっかりやったからこそ2時間06分16秒が出せました」
Q.引退を決めたときはいつでしたか。
高岡 2月4日に、東京マラソンに向けて距離走をしているときでした。「また」という言葉が正しいと思うのですが、左のふくらはぎに肉離れを起こしてしまいました。続けて練習することができない、理想としているマラソンのための練習ができないと判断し、今度の東京マラソンを最後にしたいと決めました。
Q.迷いとかはなかったのですか。
高岡 僕はつねに4年ごとに目標を設定してきました。現実的に考えて、2012年のロンドン五輪が目指せるかといえば、そこまでやれるという気持ちを持ち続けられない。そう思ったのが一番の理由です。
Q.******がもう少し早ければ、という思いがありますか。
高岡 マラソンでオリンピックに出たかったという思いはありますが、競技をやっていくなかで自分に一番適したときに転向できたと思っています。そうさせてくれた監督には感謝しています。転向が早ければ(マラソンで五輪出場が)できていたかといったら、必ずしもそうは言い切れません。31歳までトラックをしっかりやったからこそ2時間06分16秒が出せましたし、もっと上を目指せると思えたのだと思います。
「そのときどきで、良い指導者に巡り会えた」
Q.一番、印象に残っているレースは?
高岡 本当に色々な大会に参加して、色々な経験をさせていただきました。そのなかで1番はやっぱり、2003年の福岡国際マラソン(2時間07分59秒で3位。五輪代表を逃す)だったという印象です。アテネ五輪の予選だったということと、自分自身の中で一番勝負に出た大会でした。そのときのために、準備も一番長い年月をかけた大会でした。
Q.夢を追いかけ続けてきて、どういう陸上競技人生だったと?
高岡 すごく恵まれていたと思います。中学で出会った先生から始まって、そのときの僕に必要なことを、その時点時点に合わせて教えてもらうことができました。陸上競技を始めて26年、会社に入って16年なんですが、良い指導者に巡り会えました。長く陸上競技人生を送ることができたのは、そこが大きかった。
Q.東京マラソンの目標や位置づけは、どうなりますか。
高岡 東京は目標としてきましたから、もちろん、優勝を目指して全力で走りたいと思っています。
「僕の記録が残り続けることが、日本の陸上界にとっていいこととは思えません」
Q.世界陸上の代表選考会ですが、優勝した場合は?
高岡 もしも選出されることになれば、喜んで日本のユニフォームを着たいと思います。
Q.大学まで京都で過ごされたわけですが、一番の思い出となっていることや、レースを挙げられますか。
高岡 高校、大学とそれほど強くありませんでしたが、一番の思い出は高校駅伝で区間賞を取れたときかな、と思います。
Q.山口にいた時代の思い出というと?
高岡 駅伝に関しては元旦のニューイヤー駅伝で、一度だけですが伊藤監督を胴上げできたことがあり、それが一番の思い出です。山口という土地に関しては、大学を卒業したときに「勝負をしよう」と思って行った場所です。良い思い出の場所です。
Q.今でも3種目の日本記録を保持されていますが、引退を決意された今、破ってもらいたいという考えなのか、保持したいと思っているのか。
高岡 今日はまだ現役選手です。破られたら破り返すくらいの気持ちを持っています。ただ、僕の記録が残り続けることが、日本の陸上界にとっていいこととは思えません。1日も早く破られることを望んでいます。それがチームメイトならなお、嬉しいです。
カコミ取材時のコメント
●東京マラソンについて
「この時期に発表したのは、ウソはつけないな、という思いから」
「ケガは順調に回復していて、東京マラソンにベストに持っていけるように調整しています。完全に休んだのは1〜2日だけ。東京マラソンを控えた時期に発表させてもらったのは、多くの方に期待してもらっているだけに、ウソはつけないな、という思いからです。ただ、今日発表したことで、これまでとは違う気持ちでスタートラインに立てます。今までは、狙わないといけない気持ちが大きかったのですが、それがなくなったら意外と速く走れるかもしれません。(高橋尚子選手はあんな形で引退レースを走った。色々な形の引退レースがあるが?)多くの方に応援してもらいましたから、感謝の気持ちを表して走りたい。でも、僕の場合は最後の挑戦でもあるので、めいっぱい頑張って走ります。走ることがきらいになったわけでもないし、走らなくなるわけでもありません。現役選手として頑張るのはこれが最後ということ。そういう気持ちで走ります」
●引退を決意した経緯
「28分30秒ならば走れるマラソンを考えていましたが、そのレベルも厳しくなった」
「2月4日の山口合宿中に肉離れをして、すぐに決断しました。それまでも練習中に、体で感じているタイムで行けていないことが多くなりました。少しずつ練習ができなくなっていて、そういう気持ちが積もっていたのだと思う。(同じ所を痛めたらやめると決めていた?)そこを頑張らないと、レベルの高い練習はできません。妥協のできない部分でした。
ケガをしてからの“戻り”が遅くなったな、という感じもありました。2006年、2007年以降です。スピード不足を感じました。(その頃に方針を転換しているが?)当初は、1万mを27分30秒で走れなくとも、28分30秒ならば走れるマラソンを考えていました。しかし、そのレベルも厳しくなったんです。
それまでは“やめる”と口に出しませんでしたが、その日はすぐに結論を出しました。先に家族に伝え、それから伊藤監督に、ケガをした報告と一緒に、このまま走り続けることはできないことを言いました。(妻は)僕の良いところも知っているし、悪いところも知っている。そういう時が来るな、というのは薄々、感じていたようです。お疲れさま、と言ってくれました」
●高岡にとってのマラソン
「不器用で上手く表現できませんが、一番情熱を傾けてやれたこと」
「東京マラソン出場は、1本1本、“マラソンを極めたい。1本1本が集大成”という気持ちで決めました。マラソンは何回やれば満足するのか、極められるものなのか、わかりません。ただ、自分の中では成功するパターンがあって、いくつか工夫をしてやってこられました。今回のケガによって、次も目標を立ててやることが難しくなりました。理想とする2時間5分、6分のマラソンはできません。2時間12〜13分では、走りたいとは思えないのです。(マラソンとは?)不器用で上手く表現できませんが、一番情熱を傾けてやれたことです」
●今後のこと
「世界一を目指す選手を育てたい」
「僕は世界一を目標に取り組めました。世界一を目指せるチームであったり、選手を育てたい。(マラソン界が低迷しているが?)僕も難しいことをやってきたわけではありません。タイミングも含めて、多くの方が工夫をされています。近いうちに世界と勝負ができる取り組みをしていると思います。その情熱を持ってやられていると思います」
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