2008/7/19 市原ナイター
澤野が“助走”に自信
停滞した2年間を経て再上昇の気配


「今日、助走は完成しました。あとは(北京五輪まで)突っ込みから先をやっていけばいい」
 競技後の澤野大地(ニシスポーツ)の言葉が弾んでいた。
 市原ナイターのテーマは“助走”だった。棒高跳は“まず助走ありき”。しっかりした助走ができて初めて、その先のことを考えられる。澤野はずっと、そう言い続けてきた。
 具体的にどういう言葉が適当なのかは、難しい部分だ。感覚的なところで、選手によって言葉は違ってくる。一般的な表現をするならば、“しっかりと軸に乗って、脚が流れない助走”といったところだろうか。
 日本選手権では何本かできていたが、南部記念ではできていなかったと米倉照恭コーチは言う。
「日本選手権の5m60の2本目で、別人になったようにはまり始めました。5m40は強引に持っていった跳躍でしたし、5m60の1本目も鈴木(崇文・東海大)君を意識したのか力んでいました。5m70でポールを硬くしてから欲が出たのか、また力んでしまいましたが、(ポールを1つ軟らかくした)3回目に落ち着いて、きれいな助走に戻りました。南部記念は本人のテンションが上がっていなくて、無理にもっていったところがありました。それで、肩が上がった力んだ助走になっていたと思います」

 澤野は2年ほど前にも一度、突っ込み以降に重点を置き始めたこともある。05年に初めてのヨーロッパ長期単独遠征も行い、世界選手権では強風の悪条件の中で8位に入賞した。どんな場面でも助走が安定し始めた手応えがあった。我々には伝わっていなくても、その段階に至ったことは何度かあっただろう。
 だが、すべての試技で助走が安定していたわけではなく、崩れてしまうこともあった。硬いポールを使えばその分、ポール自体の重量も重くなる。2005年に日本記録の5m83を跳んだときすでに5m10のポールを使っていたが、耐荷重は195ポンドで硬さはフレックスは15.2だった。06年から200ポンドでフレックスは14台(数字が小さい方が硬い)になっている。
 風などでポールを倒すタイミングが狂うと、条件がよくなってもなかなか元に戻せなくなるようだ。それがひどかったのが昨年だった。冬期練習ではそこそこ安定していたが、春先に狂い始めてしまった。
「去年の春が一番大きな崩れ方でした。一度壊れてしまうと、シーズン中にはなかなか直せなくなります」と米倉コーチ。「ここ1〜2年の反省は、本人の気持ちと身体の状態がかけ離れてしまっていたこと。それがフォームを崩す一因になっていたと思います」

 澤野の課題の1つに、勝負所で痙攣が出ることがあった。硬いポールを“曲げてやろう”と意識しすぎることで力が入りすぎ、それが痙攣につながっていたと、日本選手権のときに澤野は話していた。米倉コーチは「気持ちが出過ぎると悪い姿勢が出て、脚への負担が相当に大きくなっていた」と分析する。「冬に一度完全に壊してゼロから、軸の作り方とか姿勢とか、加重のかけ方とか、いいものだけを取り出して作り直してきました」
 澤野は4年間の蓄積という点を強調した
「アテネ五輪前と比べたら確実に、何段も上だと思います。この4年間で色んなところに行って、たくさん跳び込んで、色んなことをやって来ました。今日も、脚がつる気配はどこに行っちゃったの? という状態でした」

 今季は年齢を考慮して練習をコントロールすると言い始めた澤野だが、それは疲労を残さないようにするための量的なところの話。06年以降、硬いポールを使いこなすことを考えてやってきているため、パワーとスピードは上がっている。それに、熟練した動きが加味されてきたのが今の澤野である。
 市原での助走の感覚を、澤野は次のような表現の仕方をした。
「楽なんです。ポール降ろしから踏切まで楽に持っていける。楽をしようとしているのでなく、楽なんです。1歩目から。そうなると助走に意識を置かず、突っ込みから先を意識することができるようになります」
 そこを北京五輪までにやっていくことになる。市原で記録が5m60にとどまったのは、日本選手権後に「跳び込む練習を行っていなかったから」だと米倉コーチ。故障明けだった日本選手権でも、1週間前にようやく、跳び込みの練習ができたという。
 本番まで“跳び込む”練習はあと4回ほど。それだけの回数で良いのか懸念されるが、実は、突っ込みから先の部分が、澤野が先天的に優れている部分なのである。


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