2007/2/18 東京マラソン
初代チャンピオンを誕生させた
ジェンガ&安田監督
師弟の信頼関係
東京マラソンで最も印象に残ったのが、優勝したダニエル・ジェンガ(ヤクルト)と安田亘監督との信頼関係だった。まず、25kmと早い段階でスパートした理由を聞かれたジェンガが、次のように話し始めた。
「安田監督と朝のミーティングをしたとき、26kmと30kmにいると言われましたが、(スパートした)25kmでチラッと後ろを見たときに離れていました。迷ったけど思い切って行こうと判断しました」
25kmから30kmまでのスプリットは14分51秒。その前の5kmは15分52秒。すさまじいペースアップだった。
「負けたら自分の責任だし、負けたら信頼をなくす。そう思って行きました。安田監督が見えるまで不安がありましたが、『もう大丈夫。頑張れ』と言われて安心して行けました」
失敗を監督の責任にしない選手と、選手の判断を尊重する監督。それができるのは、レースまでの過程で信頼関係が築けていたからだ。
ジェンガのマラソン全成績
回数 年 月日 大会 成績 記 録 1 1995 2. 5 上尾 1 2.20.28. 2 1997 2. 9 東京国際 dnf 3 1999 12. 5 福岡 10 2.11.49. 4 2001 3. 4 びわ湖 dnf 5 2001 12. 2 福岡 17 2.20.53. 6 2002 2. 3 別大 2 2.12.43. 7 2002 10.13 シカゴ 2 2.06.16. 8 2003 10.12 シカゴ 3 2.07.41 9 2004 2.08 東京国際 1 2.08.43. 10 2004 10.10 シカゴ 2 2.07.44. 11 2005 4.17 ロンドン 15 2.15.25. 12 2005 10.09 シカゴ 3 2.07.14. 13 2006 10.22 シカゴ 2 2.07.40. 14 2007 2.18 東京 1 2.09.45.
1999年の入社以来、8年がたった。入社後初マラソンの福岡こそ2時間11分台でまとめたが、続く2回のマラソンにジェンガは自信を持って臨みながら失敗。しかし、02年の別大できっかけをつかみ、同年10月のシカゴで高岡寿成(カネボウ)を2時間06分16秒の同タイムで破って2位。当初はケニア選手特有のバネを殺さない練習法だったが、安田監督のアドバイスを受け容れ、日本的な走り込み中心の練習を行うようになり、マラソンでも結果が出始めた。信頼関係は長い期間で構築されてきた。
それが今回のレース前に、より強いものになった。ジェンガは12月に脚の痛みが出て、ほとんどジョッグしかできない。ニューイヤー駅伝は欠場せざるを得なかった。
「過去のマラソンでは40km走を8回、9回とやっています。今回は1月だけ。50〜60%のトレーニングしかできませんでした。ものすごく不安があって、東京マラソンはやめたいと監督に言ったこともありました。でも、監督が『できる。大丈夫』と励ましてくれた。そこまで言ってくれなかったら、今回出ていなかったと思います。不安のなかでマラソンをやれて優勝できたのは、安田監督のおかげです。監督ありがとう、と言いたいです」
安田監督に東京マラソン出場を勧めた経緯を聞いた。
「12月に休んじゃったけど1月はすぐに練習ができたからね。6日に40km走をやったらフォームが良くなっていた。12月は左右のバランスが崩れて、左が低くなっていたけど、それが直っていた。返しも速かったしね」
指導者として技術(動き)のチェックポイントがしっかりしていたわけである。それを実証したジェンガの走りだったが、判断の決め手となったのは、これまでの師弟が歩いてきた道があったればこそ。
「“キャリア”があるからね。それしかないね。絶対に大丈夫だと思った」
東北地方のイントネーションで話す安田監督が、ケニア人のジェンガに全幅の信頼を置いていた。
2005年のシカゴ・マラソン時の師弟
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