2007/4/22 兵庫リレーカーニバル
高校生・絹川愛が31分35秒27!
世界選手権A標準突破
ジュニア日本新&高校最高
そして初1万m日本最高!

共同記者会見コメント


「監督の言葉のマジックに乗ってみよう」
Q.(質問不詳)
絹川 A標準を切れたら、とは思っていました。そこまでの練習はしていなくて、一か八かのレースでした。1万mに出場することになったのも、つい最近のことなんです。1カ月くらい前に渡辺監督から「今度、1万m走るから」と言われて。4月の頭だったので、エイプリルフールじゃないかと思ったくらいです。最初は反応できませんでしたが、(標準記録も)偉大な監督の言葉のマジックに乗ってみようかな、と思いました。切れるようなら切ってみたい、と思いましたし。(レース前は)緊張していましたが、心のどこかで切れるかもしれない、というのもありました。
Q.どんな言葉のマジックですか。
絹川 私の5000mの自己記録は15分28秒ですけど、「前半の5000mを15分40秒で行って、後半も押して行けば簡単に行けるよ」と言われて。言われてみれば、そうかな、と思ったりしました。練習でも「オマエならできるぞ」と言われて、私もその気になって。
Q.種目は5000mにこだわらなかった?
絹川 標準記録を切れるなら、5000mでも1万mでもいいと思っていました。大阪のあの場に立てるなら、100 mでも200 mでもいいかな、って。

「ここでお腹が痛くなったり、ケイレンを起こしたら楽になれるのかな、とか考えました」
Q.(ジュニア日本記録を持っていた)福士さんは、絹川さんにとってどんな存在?
絹川 私の大の憧れです。(4月には)エチオピアにも行ってしまわれて。5000mと1万mは世界で戦うのは難しいと言われていますが、福士さんはそれをうち破ろうとされています。目標として頑張りたいと思っている方なんです。(今日の記録で)ちょっとだけ近づけたかな。2〜3cmくらい。
Q.1000mを3分10秒ペースで行くという話でしたが、どこでA標準を破ったと思いましたか。
絹川 行けるとは、最後まで思っていませんでした。何も自覚しないで、前半を3分08秒、後半は3分10秒で行けていたら切れるだろう、というくらいの考えで。5000m通過は15分44秒で、設定は15分40秒くらいでしたが、これなら大丈夫という想定内の通過でした。でも、実を言うと4000m地点で一度、疲れのピークが来て、厳しいかなと感じていました。5000m(の4000m地点)なら残り1000mですが、1万mでは残りが6000m。駅伝の1区と同じ距離かあ、と。途中で考えたことの多いレースでした。ここでお腹が痛くなったり、ケイレンを起こしたら楽になれるのかな、とか。でも、そんなことをしたら選手として絶対にダメです。理性というか、スポーツマンシップが歯止めをかけました。

「高校生の枠が外れるのが、1年早いか遅いかだけです」
Q.脇田(茜)さんの転倒を見て、どう思われましたか。
絹川 去年の大阪インターハイを思い出しました。私も1500mの予選で転倒してしまって、3カ所を、10何針か縫うケガをしてしまいました。縫って、次の日の1500m決勝(7位)と、その後の3000m(3位)に出ました。小林(祐梨子)さんの活躍の陰で、そんなドラマが起きていたんです。それを思い出して、あまりいい感じはしませんでした。
Q.中学ではどんな選手だったのですか。
絹川 1・2年生のときは100 m・200 mをやっていましたが、3年生では100 m・200 mの枠から外れてしまったんです。先生から800m・1500mをやれと言われて、全日中は地元の群馬で行われたのですが、知らぬ間に1500mで2位になっていました。秋の国体では800mで7位でしたが、初めて渡辺高夫監督と話をさせていただき、仙台に行くことを決めました。
Q.いつ頃から世界選手権を狙おうと考え始めましたか。
絹川 これもまた1年前の5月のことですが、監督から「来年、大阪で世界選手権があるけど、もしかしたらオマエも出られるかもしれない」と言われたのが最初です。その頃はまだ16分20秒台の選手で、また馬鹿なことを、と思いましたが、ちょうど1年が経って、まさかあの言葉が現実に近くなるとは思いませんでした。怖いですね。
Q.福岡クロスカントリーでシニアの部に出られていますが、初1万mでもシニア選手たちと一緒に行く自信があったのですか。
絹川 自信はありませんでしたが、あと1年も経ったら大学か実業団で、どんどん走っていかないといけません。高校生の枠が外れるのが、1年早いか遅いかだけですから、あまり深くは考えていませんでした。

400 m毎の通過&スプリットを掲載予定


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