2006/5/28 東京選手権
“中学記録保持者”為末が200 mで20秒97!
高3以来、10年ぶりの自己新
そして、400 mHに生かせる点とは


@「中学記録以来の感覚です」

「高校の記録(21秒23・96年)を更新したという感覚ではなく、ジュニアオリンピック(21秒36=中学記録・93年)以来の感覚です」
 東京選手権男子200 mの決勝レース後、為末大(APF)は20秒97の走りをこのように振り返った。どうして、自己記録そのものを更新した感覚ではないのか。そこが、今回の200 m挑戦のポイントだった。

 ご存じのように、為末は100 m・200 mの全日中優勝者で、200 mの21秒36は現在も中学記録。中学生の混成種目が四種競技となったため、三種競技Bの3354点は中学最高記録として残っている。
 しかし、高校入学後は400 mが中心となり、3年時にはインターハイに優勝。世界ジュニアでも4位となった。そして、地元広島国体では高校生初の45秒台(45秒94)。同国体では400 mHにもジュニア選手初の49秒台(49秒09)をマークした。その後は400 mHが専門種目となり、世界選手権の銅メダルを2回も獲得するに至っている。

 各メディアで何度も報じられているように、為末は今季、ハードルを跳ばないと決めている。国際グランプリ大阪の400 mでは高校以来となる46秒台前半を記録した。そして今回は200 m。学生時代に数回出場したことがあるが、何年のことだったのか、本人も明確に覚えていない。シーズンが本格化する前の3〜4月の時期の記録会だったのは確かだという。ラウンド制の試合は、21秒23の自己記録を出した高3時の日本ジュニア選手権以来だった。
 東京選手権の200 mは大会2日目に、予選・準決勝・決勝と3本が行われ、為末は下記のような記録でラウンドを進め、決勝は大会新記録で優勝した。

予選  22秒20(−0.8)
準決勝 21秒57(−0.1)
決勝  20秒97(+0.5)

 予選後はまだ、確かな感触は得られていない様子で、次のように話していた。
「(車のギアで言うなら)1・2速は入るのですが、3・4速が上手く入りません。特に4速ですね。ウィーンという速い回転が400 mHにはない感覚なので。でも、今年中にはどこかで自己記録を破りたいですね。この種目にもちょくちょく出場するつもりですから」
 それが準決勝、決勝と走る毎に、動きが良くなっていった。
「そういえば昔、こんなふうに走っていたな、という感覚がよみがえってきました。予選ではまだ、チェーンが合っていなくて空漕ぎをしている感じでしたが、準決勝・決勝と進むにつれて、チェーンがしっかりかかってきた感じになってきた。それは、高校の時の感覚ではなく、中学以来の感覚なんです。高校時代に21秒36よりいいタイムだったのは、自己新を出したときの1回だけでしたし」

 中学時は純粋なスプリンターだったが、高校ではロング・スプリンターだった。為末は自身の競技生活をこう振り返ったことがある。高校時の45秒94は、スピード持続能力を鍛えたから出せた、と。400 mHを専門とした後、以前のような400 mの記録は出せなくなった。46秒後半を出したシーズンが2回あったが、残りは47秒台ばかり。
 しかし、「瞬間的なスピードは出せるようになった」と言う。それが、400 mHの1台目を世界最速スピードで入り、あとはなだらかな下降曲線を描くの為末のスタイルに必要な要素だった。言ってみれば、高校よりも中学に近い走りだったはずだ。
 それでも、今回の200 mでやっと、中学時代の感覚に戻れたという。その理由はAで説明するが、400 mH用の動きの、もう1つの特徴による。

A「ねじれを入れないでストライドを稼げるかもしれない」

 東京選手権200 m決勝の為末は、コーナーの出口では3番手。そこからスピードに乗った走りを維持してトップに進出した。
「決勝はトップギア(4速)に上手く入りました。(準決勝までは)一瞬トップに入っても、すぐにガクンと落ちてしまった。決勝はコーナーの出口から160〜170m付近まで、持続させることができたんです」

 400 mHの1台目を世界最速スピードで入ることを考えれば、トップギアに入る地点が遅すぎたようにも感じられたが、そこは400 mHと200 mの種目の差だったのだろう。後半でトップに立ったことも、高校時代のようなスピード持久能力によるものではなく、トップギアを維持する技術的な走りができた結果だった。
 10年前の記録と今回の違いの説明に、それが現れていた。
「高3時の21秒23は風と、持続力で出した記録。調子が良くないと再現できないような走りでした。それに対して今日は、タイミングが合えばできる走り。乗りこなせる感じがしています。もしもこの走りがハードルにはまったら、バーション(ジャクソン・米=昨年のヘルシンキ世界選手権金メダル)に勝てるかもしれません」

 為末は400 mHの動きに特化する過程で、走りにひねりを加えるようになっていった。170cmと小さい体格ながら、13歩で5台目までを行くスタイルを完成させるためには、ひねる動作を入れてストライドを楽に獲得することが必要だったのだ。瞬間的なスピードを求めたが、動きは中学時代とは違った。
「400 mH前半のストライドが2m70だったとします。これまでは、体をねじる走り方でそのストライドを生み出してきましたが、スピードが上がれば、ねじりを入れずに2m70のストライドが出せるかもしれない。それができれば、前半で無理をしないで今のスピードを出せる。力を温存できますから、最後の直線が違ってきます」
 後半部分には別の要因で手応えも感じている。日本人トップだった織田記念や、46秒49の国際グランプリ大阪がそうだったように、今回も腕を下の方で振る“漕ぐような動き”を後半に試している。そこでは、金丸祐三(法大)の接地時の動きも参考にしているという。トップギアに上手く入れたことと後半の動きが功を奏し、20秒台の記録になって表れたのである。

 スプリント力が向上すれば、スピード曲線上昇時の角度が大きくなり、以前よりも短時間でトップスピードに入れる。曲線の右下がりが同じ傾斜なら、トータルのタイムは確実に縮まる。それがハードルを跳ばないシーズンを設け、スプリント強化に専念する戦略だった。しかし、純粋なスプリンターに憧れる自身の我が儘の部分もある、という。その我が儘が400 mHにも結びつく道筋が、今回の走りで見えてきた。
「(400 mHを専門にして)スプリンターの能力が消えたわけではなく、ハードル用にスイッチさせただけだと自分に言い聞かせていました。100 mの10秒3〜4台、200 mの20秒台を出せる自信はあったのに、それを実行しないうちにハードルに移ってしまった。この記録を出せたことで、胸のつかえが取れたような気持ちです」

 200 mの中学記録保持者の看板は、世間はとうに忘れていたこと。だが、昔の為末を知る記者から質問が出た。
「中学に戻ったと言えるのか、それとも、中学を卒業したと言えるのか」
 為末は苦笑いをしながら答えた。
「それは、寺田さんのセンスに任せます」
 筆者は、読者のセンスに任せたいと思う。特に、広島の関係者と為末ファンに。


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