2006/1/22 全国都道府県対抗男子駅伝
7区区間賞&優秀選手賞は仲野
ブレイクへの“兆し”と“経緯”


「前半から突っ込んで、集団に追いついてからはペースを落としました。出ようと思っても、向かい風で出られませんでした。その時はチームの3位を狙っていましたから。38分00秒に設定はしていましたが、タイムはたまたま良かっただけ。佐藤(悠基)君にも離されていると思っていました。ビックリですね。日本のトップレベルの選手が多い中で区間賞を取れたのは、本当に嬉しいです」
 7区で区間1位(37分55秒)となった仲野旭彦(愛知・愛三工業)は、喜びを素直に口にした。区間2〜5位は細川道隆(兵庫・大塚製薬)、太田崇(北海道・コニカミノルタ)、佐藤悠基(長野・東海大)、佐藤敦之(福島・中国電力)という錚々たる顔触れ。その中で区間賞を取り、優秀選手賞も受賞した。仲野が喜ぶのも肯ける。

 1万mは28分56秒97がベストと、実業団なら“中の下”のレベル。だが、ブレイクの兆しを感じ取れたレースが2つあった。
 1つはニューイヤー駅伝の2区。愛三工業はW・キルイがトップと1秒差の2位でタスキを運んできた。仲野は同タイムで中継所を出た松宮隆行(コニカミノルタ)に8km過ぎまで食い下がった。その後、引き離されて後続の集団に吸収されてしまった。三津谷祐(トヨタ自動車九州)、佐藤敦之、浜野健(トヨタ自動車)、入船敏(カネボウ)、前田和浩(九電工)と、そのときもすごい顔触れだった。力の劣る選手がこういった展開で集団に吸収されたとき、ほどなく遅れていくのがよく見る展開である。
 しかし、仲野は遅れなかった。最後まで集団で粘りきった。前田が最後で集団から抜け出たが、仲野は三津谷に競り勝って、その集団では2番目で中継したのである。区間順位は10位だったが、それ以上の力があることを印象づけた。
 もう1つは中部実業団対抗駅伝で、4区で区間賞を取った。3区のM・マサシ(スズキ)を除けば、トヨタ自動車とトヨタ紡織が交互に区間賞を取り合った駅伝。そこに愛三工業の選手が割って入って関係者の注目を集めた。
 全国的に仲野が存在を印象づけたのは、テレビに長時間映ったニューイヤー駅伝だが、仲野自身は、きっかけになったのは中部実業団対抗駅伝だと言う。
「あの状態で区間賞を取れたのが自信になりました」

 あの状態というほど、昨年はおかしな状態だった。織田記念5000mA組で最下位(14分27秒00)となったが、翌5月の記録会でセカンド記録(13分50秒72)をマーク。織田記念はそれ以前の故障が影響していたかもしれないが、8月の東海選手権は15分30秒かかり、9月の全日本実業団5000mは2組で最下位だった。
「セカンド記録を出したときも、どこかしっくり来ませんでした。原因はよくわかりません。チームの主要区間を任される選手でしたから、練習でも引っ張らないといけない意識が強すぎて、力んでいたのかもしれません。その状態から、(体が)動き始めたのが中部実業団対抗駅伝でした」
 疲労の残り方が大きくなったこともあり、練習姿勢や日常生活を見直した。酒量を減らし、貧血対策などにも取り組んだ。それで、駅伝シーズン前から疲労の残り具合が変わってきたという。

 大きな変化はこの半年間のことだが、レースも練習&生活も、その間だけの成果ではないだろう。
 東洋大では箱根駅伝出場は1回だけ。5区で区間14位だった。
「チームは最下位。同学年に石川(末広・現ホンダ)がいましたが、一番弱小と言われていた頃です」
 愛三工業入社後も1・2年目は、貧血に加えて故障が多かった。
「膝、シンスプリント、腸徑、座骨と、なんでもやりました」
 しかし、3年目の04年には故障が減り、自己記録も「ポンポン出た」という。
「中部でもジュリアス・マイナに次いで区間2位になったり、ニューイヤー駅伝でも1区の途中まで日本人トップを走ったり、実業団で少しずつ経験を積むことができました。これだけの練習をすれば、これだけの結果が出ると、トレーニング面もわかってきました。日本代表も、少しずつ実感できるものになってきた。それが意識の変化に結びついたのだと思います」
 次は3月のクロスカントリーに出て、世界クロカンの代表入りが目標。
「一度は日の丸を付けたいと思っていましたが、今はそれが、雲の上のものとは思いません」
 全国都道府県対抗男子駅伝で優秀選手に選ばれたランナーは、国近友昭(NTT西日本広島→エスビー食品)、高岡寿成(カネボウ)、川嶋伸次(旭化成)、大島健太(くろしお通信)、佐藤敦之(中国電力)、大森輝和(くろしお通信)ら。その後必ず、日本代表になっている面々である。


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