2005/9/25 全日本実業団
女子走高跳日本記録保持者の今井がラストジャンプ
競技後の一問一答

「このまま続けていたら、“好き”に戻れない」
Q.今の気持ちは?
今井 「やった」っていう感じです。1m75が跳べてよかった。記録が出て、表彰台に上がれてよかったです。80を跳べたら2位にもなれたんですが、練習を(それほど)していなくて75を跳べたらいいでしょう。
Q.7月の練習中に引退を口にしたということですが、そのときの経緯は?
今井 4月くらいから引退の2文字が見えていましたが、“いやいや、まだまだ”と頭から消し去ることができました。7月は日本選手権が終わって1カ月経って、納得のいく練習ができていた頃。“これは結果を出せる”と、次の段階にステップアップした練習をするため、回復させようとしたのにできなくて。言葉にする直前までは、決めていませんでした。「(阪本孝男)先生の引退はいつ?」と聞こうとしたつもりが、「引退していいですか?」という言葉が出てしまって…。でも、それが自分の本心かな、と。先生も雰囲気的に、4月頃から、練習を見ているのが辛かったと思います。「辛い」とか「イヤ」とか、練習中はそういうことを言うな、というのが先生の考えでしたし、私も走高跳が好きで言ったことはなかったのですが、4月から6月まで、人生で初めて走高跳が辛かった。このまま続けていたら、“好き”に戻れないと感じて、私的にはそれがイヤでした。今なら間に合うと思って(7月に引退を)決断して2カ月、最初は嫌いな状態でやり始めましたが、また走高跳を好きになることができて、今日は楽しく競技ができました。春季サーキットの頃は1m75しか跳べなくて、辛くて泣いていましたが、半年経った今日は75で大満足できました。こういう気持ちになりたかったんです。

「1m70台のレベルでは、選手としては満足できない」
Q.1m78の3回目はどんな気持ちで?
今井 いつも通りでした。悔いの残らないよう、思いっきり跳ぼうと。
Q.何かを思い出していたとかは?
今井 それは、まったくありませんでした。最後だからと感情に振り回されるのでなく、いつも通り、楽しくやろうと。
Q.1m70のレベルでも、1m75でも、続けることはできたと思いますが。
今井 (自分が)そういうことでいいと思う選手とは、思えません。選手を続けるなら、上を目指していきたい。そのレベルでは満足できません。性格上、そういうレベルで続けることはできません。やめると決めたら、上を目指さなくていいとなったら、75でも満足できましたし、練習で1m50から跳び始めることもできました。
Q.来年、試合に出る可能性は?
今井 一線は引退しますが、健康陸上はそのうちやろうかと思っています。でも、先のことはまだ、わかりません。すぐにやるかもしれしれませんし、1年経ってもやらないかもしれません。

「1m96を跳んだシーズンの前半が、一番楽しかった」
Q.競技生活でベストジャンプといえるのは?
今井 結果としてはこれ(と、1m96のときの写真パネルを指す)かもしれませんが、やっていて楽しかったのは、この年(2001年)のサーキットですね。1m92を連発して、最高の跳躍ができていたと思います。でも、1m94や96にバーが上がると緊張してしまってクリアできませんでした。ただ、(1m92までの高さでは)96よりも頂点ははるかに高かった。スーパー陸上の1m96は、世界選手権で失敗して、気力で跳んだようなところがありました。
Q.長かったですか、短かったですか。
今井 結構、短かったように感じています。去年までは36歳か37歳までやろうと思っていたくらいですから。あきらめは悪い方だと思っていましたが、ケガには勝てませんでしたね。引退を決めたのは(2003年世界選手権前に痛めた)ヒザのせいじゃないですよ。今回、負けたのは座骨神経痛です。心身とも陸上競技を離れないと治らないみたいです。
Q.今後は何を?
今井 まったく考えていません。白紙です。とりあえずは、今までできなかったことをやりたい。試合じゃない旅行に行きたいですね。空港とホテルと試合会場の往復だけじゃない旅行に。理想はバックパッカーで、私が男ならすぐにでもやってみたいんですけど…。

「ずっと、無茶をしすぎましたね、身体の悲鳴を無視して」
Q.競技生活を振り返ると、どんな気持ちですか。
今井 よく、飽きずに続けてきたな、と思います。飽き性なのに。人生の3分の2ですからね。20年間続けたことは自慢できます。走高跳以外は三日坊主で、日記も続かないし、練習日誌も…。よく続けたし、練習もよく、あれだけやったな、と思います。7月上旬にやめると決めて、この3カ月間で年相応の練習があるとわかりました。それまではずっと、ちょっと無茶をしすぎましたね、身体の悲鳴を無視して。7月からは気が抜けたせいもあって、練習量は5分の1くらいになりました。「この練習の後に、(以前は)あんなこともやったのか」と思いましたから。
Q.最初の試合はいつだったのですか。
今井 小学校5年の、区の大会でした。記録は1m15で、たぶん優勝したんじゃないかと思います。懐かしいですね。バスケットやソフトボールもやりましたが、やっていて楽しめたのは走高跳だけ。楽しかったから、続けられたんでしょう。
Q.ハニカット陽子選手からは、どんなメッセージが届いていますか。
今井 試合中の会話とか、最後にしたかったですね。先輩からは「行けなくてホントにごめん」と。私は「先輩がいない分順位が上がって、もらえる強化費も多くなるので、その差額を餞別としていただきます」と返したり。でも、10月には食事をする約束をしていますし、その後も一緒に遊んだりしていると思いますよ。

阪本孝男コーチとの一問一答
「走高跳が大好きな子でした。自分の生活、やっていること全てが走高跳中心」
Q.最終的に引退を決めたときの状況について。
阪本コーチ 7月上旬に跳躍練習をやっていて、調子が良くなかったので「今日はやめておこう」と話したら、彼女が「先生、もうやめてもいいかな」と言って、その途端に大泣きをし始めて。ああ、言っちゃった、これ言っちゃったら引退かな、という気持ちだったようです。それ以前は、冗談でも引退とは言いませんでした。大阪(世界選手権)に出て、北京に出て、と話していましたから。
Q.ひと言でいうのは難しいかもしれませんが、どんな選手でしたか。
阪本コーチ 一見、今風の女の子で我がままな感じですが、実はその正反対で、真面目で一途でしたね。こと走高跳については思い入れがすごくて、走高跳が大好きな子でした。自分の生活、やっていること全てが走高跳中心。遊びに行くのにも、跳躍練習をいつやるから、今日はこういう遊びをしても大丈夫と考えたり。しつこいところもありましたしね。練習中に「もういいんじゃない」と言っても、「いえ、まだ跳びます」と頑張って。それがある意味、裏目に出たところもあります。パリ(2003年の世界選手権)の前に左ヒザを痛めたのも、そうでした。僕が「やめようよ」と言った前の跳躍で痛めていたのですが、本人はそれでも「跳ぶ、跳ぶ」と言って聞かなかった。僕も、痛めていたのに気づかなくて。世界選手権には出ましたが、ヒザが曲がらないくらいの状態でした。半年間くらい何もできず、手術をした方がいいかな、とも思いましたが、本人はメスは入れたくなかった。結局、その故障は完治しましたが、その後も足首や腰の故障が続きました。最終的には今年の春、記録が出なくなったことが決心した理由だったと思います。1m80も跳べなくて。どこが悪いとかではなく、調子が上がらない。トレーニングを積んだから、元に戻るという状態ではありませんでした。積んだら積んだだけ疲労がたまり、疲労を抜くのに1週間くらいかかって。いい練習をしても1週間休んで、またいい練習をしても1週間休む。これでは、続きません。
Q.一番印象に残っていることは?
阪本コーチ 本人がどう言うかはわかりませんが、僕的にはシドニー五輪です。予選落ちでしたが、同じ1m92で、もう1人か2人というところで決勝に残れました。それ以前から計画して、勝負を賭けていた時期で、印象に残っています。結果的に決勝に残れず、アテネまでなんとか頑張ろうと、新たな闘志を沸かせることになりましたが。
Q.2mの夢もありましたが。
阪本コーチ 1m96を跳んだスーパー陸上は、(2001年のエドモントン)世界選手権から帰ってきた直後で、コンディションが良くない状態でした。それまでは単なる夢でしたが、これだったら上手く行けば2mまで行くかもしれないと、冗談でなく思いました。あの感じで1m96なら、きっちり合わせられれば跳べるかな、と。
Q.今井選手の技術の特徴は何だったと?
阪本コーチ いわゆる基本に忠実な、他の選手も同じように跳んでくれれば、というオーソドックスな技術でした。助走スピードを生かし、合理的で無駄のない踏み切りです。バーンっというのでなく、スーッと方向転換をする跳び方。そこはかなりできていて、体力レベルがついてくれば、記録もついてくるタイプでした。

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