2005/1/30 大阪国際女子マラソン
代表内定、未勝利、飛び出し、初マラソン
4選手の走りの背景には何が――?


@小崎まり(ノーリツ)
2位・2時間23分59秒
日本人トップの2位で世界選手権内定
「練習ができなかったから走れない、とは考えなかった」


 10kmから、同じ29歳の大南博美が集団から抜け出し、20kmでは集団に1分03秒差を付けた。
「私には練習の裏付けがなかったので、後半、絶対にバテると判断しました。着いて行かなくても、シモン(ルーマニア)さんも弘山さんも一緒にいましたから、安心して走れていました」
 弘山、大山、シモンとの4人の集団から、30km過ぎで抜け出した。
「30km過ぎの上りで風がけっこうあったのですが、そのあたりで前に出ていました。風除けになるのはいやだと思って、ペースを意識的に上げたら自分のペースに乗ることができたんです。そのまま行けるかわかりませんでしたが、行ってしまおうと」
 日本人トップの2位。2時間23分59秒で世界選手権代表に内定した。
「走る前は世界選手権のことは本当に考えていませんでしたが、(気象が涼しい)フィンランドなので、速い展開のマラソンになるだろうと、パリに行けなかった時点(補欠)で監督と話していました。日本のマラソンもスピードが必要になるだろうと、自分の中ではスピードを意識してきました」

 特に、距離を踏む練習ができていないと、レース前から話していた小崎。
「本当に自信がなかったので、調子がいいと言っていたみんなの気を自分にもらえたらいいな、と考えていました。35km走をやったときも、40km走を1回やったときも、30kmからすごくきつくていっぱいいっぱいでした。今日は練習とは正反対です」
 日本では珍しく、走り込みが不足していてもレースになると走れるタイプ。
「トラックではよくあることなんです。今回も、(自信はなかったが)練習ができなかったから走れない、とは考えませんでした。レース中、練習ではここからしんどくなっていたと思うこともなく、特に30km以降ですが、走れている感覚になれて楽しかった」


A弘山晴美(資生堂)
3位・2時間25分56秒
4回目の大阪も勝利の女神は微笑まず
遅過ぎた“リズムに乗る”走りの現れ


 4回目の大阪。2位(日本人1位・00年)、2位(同・02年)、・5位(04年)、そして今回の3位。弘山は今回も勝てなかった(招待選手のマラソン全成績参照)。

 レース前は、この1年間の流れを次のように自己分析した。
「オリンピック、駅伝とずっと、基礎が中断することなくできていました」
 弘山の言う“基礎”とは、走り込んだスタミナではなく、1万mや駅伝のスピードのこと。
「1年間積み上げてきた自信があります。長い距離を走るにあたっても、今回は、きちんと距離を踏めばいい、と考えられました。それほどタイムを気にすることなく、リズムを意識して、後半もきちんとペースを上げることを考えて、気持ちよく(距離的な)練習ができました」
 しかし、レースでは「ハーフを過ぎて少しずつきつくなってしまい、離されそうになりましたが、向かい風だったので1人になったらもっときついと、粘りました」と言う。結果が出てみると、「スタミナ練習が不足していた」(弘山勉コーチ)という反省をせざるを得なかった。

 とはいえ、弘山にとって大阪は、自身のトップ3のタイムを出した大会。その要因は、前述のようにシーズン全体の流れで大阪に合わせやすいこと。そして、その結果かもしれないが、レース中盤から終盤でリズムに乗れることが挙げられる。
 00年は30kmから余裕のある状態で、いつでもスパートできる状態だった(実際にシモンをリードし始めたのは弘山コーチが指示できた37kmから)。02年も29kmから自身のリズムに乗り始めた。30kmから外国勢3人と自身の4人の集団を引っ張り、キプラガト(ケニア)以外は振り切った。
 今回も小崎のスパート後、大山とシモンに差を少し開けられたが、35km付近からリズムに乗り、40kmまでの5kmで2人に30秒近い差をつけた。
「大山さんとリディアから少し離れても、きついなりに体が動いてきて、満足できる部分もありました」

 30kmからリズムに乗れていたら……それはもう、考えても仕方がないこと。今回はそれが、遅すぎた。テレビのフィニッシュ記録予測では2時間26分台と表示されたが、最後の踏ん張りで2時間26分を切ることはできた。
「世界選手権を意識してのことではありませんし、40kmでタイムを見ても計算はできなかった。代表は陸連が決めることですが、出ろと言われれば出ます。(マラソンを)やめることにはなりません」
 前回はアテネ五輪代表を逃し「マラソンは最後になるだろう」と、弘山コーチが話していた。1年前とは、競技へのスタンスに違いが出てきている。が、とりあえずは休養。レース翌朝には、夫の勉氏とソウルに旅立った。新婚旅行(93年)以来の、プライベートな海外旅行だという。


B大南博美(UFJ銀行)
6位・2時間28分07秒
好調さと高いモチベーション
10km過ぎの飛び出しに“悔いなし”


 好調が伝えられていた大南博美。名古屋に出場予定の双子の妹の敬美とともに、世界選手権姉妹代表という目標もあった。その好調さと高い意欲が10kmからと、早めの飛び出しとなって現れたのかもしれない。25kmまでは5km毎を16分台のスプリット。しかし、30kmを過ぎて大きくペースダウンし、32kmを過ぎて優勝したプロコプッカ(ラトビア)にトップを譲ってしまった。さらには36kmで小崎に、その後に弘山、大山、シモンにもかわされて6位。自己5番目の2時間28分07秒だった。
「(飛び出したことへの)悔いは全然ありません。(早めの飛び出しを)決めていたというよりも、そういうリズムに体がなったので、行っちゃえ、と思って。そのリズムを落としたくはありませんでしたから、行けるところまで行こうと。練習もできていましたし」
 15kmまでの5kmは16分35秒、20kmまでも同じく16分35秒。ここが、自身の感覚よりも若干、速くなりすぎていたという。それが、終盤の失速を招いた原因だ。
「でも、いい感覚はつかめたと思います。ショックはこれまでの失敗よりも少ないくらい。次につながるレースでした」
 同学年の小崎は以前、「弱冠29歳」という表現をしていた。まだまだ、これからである。


C斎藤由貴(第一生命)
13位・2時間35分24秒
ふくらはぎの張りで6km過ぎに後退
初めて“距離を伸ばしたレース”に失敗


 初マラソンの斎藤は6km過ぎで集団から遅れ始めた。5km通過は17分02秒と、それほど早いタイムではない。あまりにも早い段階での後退に、何らかの異常が起こっている可能性も感じられた。完走を危ぶむ声もあがったほどだったが、2時間35分24秒で走りきった。レース後の表情は、斎藤、山下佐知子監督ともさばさばしていた。今回の失敗が予測できる範囲だったのだろう。
「レース前から左のふくらはぎがすごく張っていて、ちょっとしんどかったです。以前から引きずっていた部分ですが、1週間前に中国でやった最後の強い練習で悪化させてしまいました。(帰国直後の)試走も、ゆっくりしたジョッグだけ。4日前からやっと、徐々に練習ができ始めたんですが。(初めてのマラソンは)長かったです」

 しかし、30kmまでは18分台のスプリットを維持し、表彰式では敢闘賞も受賞した。
「いただいていいのかな、とも思いましたが、完走してよかったです。ビルドダウンしてしまって、終盤はほとんどジョッグでした。完走だけが目的ではありませんが、完走しないとマラソンを体験したことにはならないと思って。今の力がどれだけなのかを、知っておきたかったんです」
 03年には初1万m日本最高、昨年は初のハーフマラソンで1時間9分台。長い距離に進出したときは必ず、好結果を残してきた。
「今回は全然違いました。練習でも、自分では追い込んだつもりでも粘る練習ができませんでした。精神的な面もあると、監督から指摘されました。課題はいっぱいですが、その克服も含めて、トラックに向けて頑張っていきます」


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