2005/3/6 びわ湖マラソン
不発に終わった前日本記録保持者、
藤田が取り組んだマラソン再生方針とは?

@前日本記録保持者にして、故障最多…

 表のように藤田敦史(富士通)は6回目のマラソン。今回は優勝した02年3月の東亜マラソン以来、実に3年ぶりのマラソン出場だった。

回数 月日 大会 成績 記 録
1 1999 3.07 びわ湖 2 2.10.07.
2 1999 8.28 世界選手権 6 2.15.45.
3 2000 12.03 福岡 1 2.06.51.
4 2001 8.03 世界選手権 12 2.18.23.
5 2002 3.17 東亜 1 2.11.22.
6 2005 3.06 びわ湖 10 2.12.30.

 その間に、01年12月の福岡で出した日本記録は、02年10月に高岡寿成(カネボウ)に破られた。アテネ五輪選考会には結局出場できず、五輪本番では同学年の油谷繁(中国電力)が5位に、やはり同学年の諏訪利成(日清食品)が6位に入賞した。

 たび重なる故障が、初マラソンで瀬古利彦の学生記録を更新したホープの行く手を阻んだ。藤田が経験してきた故障を列挙すると、以下のようになる。

99年世界選手権(6位入賞):足底
00年五輪選考会(出場できず):*******
01年エドモントン世界選手権(12位):右の座骨神経痛
02年シカゴ(出場できず):**********
03年福岡〜04年びわ湖(出場できず):右脚脛の疲労骨折
04年福岡(出場できず):左脚梨状筋症候群(臀部)
*****部分、以前の取材ノートで確認出来次第、掲載します(来週になりそう)

 同じ箇所を2度、故障しないのは、ある意味すごいことだろう。回復後のケアや意識の仕方に気を遣っているのがうかがえる。ただ、ここまでケガが続くと、それも慰めにならない。故障最多記録保持者といったら、言い過ぎだろうか(正確な資料もないし、比較できることでもないが)。かつては、世界選手権選考レースは突破した。しかし、五輪選考レースは2回連続でスタートラインに立てなかった。
「他の選手の活躍はまだ、頑張っているな、と素直に受け容れられます。日本記録保持者だったプライドは、とっくに捨てています。でも、自分の故障はなんとも言いようがありません。アテネ五輪の選考会に出られなかったときは、さすがに落ち込みましたよ。あまりクヨクヨする方ではないんですが、『別人みたい』『覇気がない』『目に力がない』と、周囲から言われました」

 昨年は、12月の福岡を目指して夏場に走り込んだ。8月中旬から9月中旬まで、練習の走行距離は1カ月で1400kmにも達した。これは、日本記録を出した00年に匹敵する。しかし、10月に入って臀部に異常が出た。エドモントン世界選手権と似た痛みが、反対の左に出たのだ。座骨神経痛とも似ているが、診断は梨状筋症候群だった。
「最初はそれほど気にならなかったのですが、気がついたときにはひどくなっていて…。慎重にやる人だったら“様子を見よう”となるところを、僕はぎりぎりまでやってしまう。そういうこともあって、変わらなくちゃいけない、と考え始めたんです」

Aトレーニングの考え方を変更。
タイムも追わなくなった


 藤田は豊富な練習量に自分らしさがある、と思っていた。人からやり過ぎだと言われても、自分のポリシーを曲げなかった。練習量が多くてケガをするのなら、ケガをしない体を作ればいい、とも考えた。
「この記録を出すためには、この練習をしないといけない、という固定観念が強すぎました。1カ月にこれだけ走らなければいけない、と考えると、どうしても無理をしてしまいます。今日は絶対に何km走らないといけない、と。自分の状態が見えなくなってしまい、それが故障につながってしまいました。考え方が硬過ぎましたね」
 12月にある女子選手と話をする機会があり、気づいたことがあったという。それまでに、練習を見直す気持ちになっていたことも大きかった。
「ちょっとした考え方の変更をしたんです。人間、そのときどきで、状態のいい悪いがあります。どんな体調でも計画通りにやって、その結果が試合に出られない、では意味がない。僕も柔軟に考えるようになりました。“これをやったら、体がこうなる”と。以前だったら、“今月は何km走り込むぞ。だったら今日は絶対に40kmだ”と走っていたのを、状態を見て30km走に変更したりするようになりました」
 故障は12月に治り、1月を走り込み期間に充てた。新しい考え方に基づいての走り込み。しかし、以前のような無理をしなくても、月間1300kmを走り込むことができた。
「狙ってその距離になったのでなく、新しい考え方で走った結果、その距離になっていたんです」
 故障の不安が払拭された部分も、あったのだろう。

 2月に入ると調整練習も多くなるが、それも以前とは変えた。考え方は走り込み期間と同じ。ここでも、無理をしないことを優先した。
「これまでは、日本記録のときのタイムで走らないといけない、と強迫観念がありました。そのタイムを追いかけてしまって、結局体調が下がってしまう。福岡の前は万全の状態であのタイムだったわけです。万全でないのにやってしまったら、体調が上がるわけはありません」
 そういった経緯もあり、今回は目標タイムは設定しなかった。初めての練習パターンで、日本記録を出したときのように“練習でこのタイムで走ったから、本番はこの記録が出る”という想定がしにくかった。
「日本記録のときは1カ月前から、いつでもマラソンを走ってOKという状態でした。今回は2月の今も、仕上がった状態ではありません。3月6日にビシッと合うようにやっています。今回が1つの勉強と考えています」

B初マラソンと同じ心境で臨んだレース
 似たレース展開。違ったのは…


 藤田の初マラソンは、駒大4年時(99年)のびわ湖だった。6年後のびわ湖は、練習を変更して臨む初めてのマラソン。
「今の段階(2月下旬)で、このタイムで行きたい、というのはありません。自分でもわからないのです。言ってみれば、初マラソンのときのようなフレッシュな心境。タイムがどうこうより、レース自体を楽しみたい。ただ、走るからには優勝を目指してやりますし、最低でも日本人トップは確保したい」

 レースも初マラソン時と似た展開となった。今回、27kmで集団が分裂したとき、ついて行けなかった藤田。初マラソン時も23km過ぎと、中盤で集団から遅れ出した。だが、その後が違っていた。初マラソン時は遅れた後もきっちり走り、30km手前で有力日本人選手を抜き去っって、2時間10分07秒の学生最高(当時)で日本人トップの2位。
 しかし今回は、30kmまでは15分09秒と粘ったが、そこで差を詰めようと頑張って「脚を使ってしまった」という。30km以降はガクンとペースが落ちたまま立て直せず、35kmまでは16分55秒、40kmまでは17分32秒。向かい風も強かったが、日本人上位選手とは1分から1分半の差をつけられた。2時間12分55秒の10位に。

 レース後の藤田は敗因に「走り込み期間の短さ」を挙げた。その結果、脚づくりが不十分だったと。99年もマラソンに直結する走り込みは1月だけだったが、箱根駅伝前の時期もマラソンを意識し、他の学生選手より多めの距離を走ることを自身に課していた。3年前の東亜マラソンの際も、直結する走り込みは同じ期間だったが、ニューイヤー駅伝の5区で区間2位になっているように、駅伝までの練習ができていた。今回は10月から12月まで故障をしていたことで、本当に“1月だけ”の走り込みだったのだ。

 座骨神経痛に苦しめられたエドモントン世界選手権を除けば、最も不本意な成績に終わった藤田。
「悔しさまで行っていません。情けない、ですね。勝負に加われず、ただ参加しただけでした」
 とはいえ、今後につながる部分がなかったわけではない。新しいコンセプトで、走り込みや調整期間に故障をすることはなかった。終盤の失速原因も、はっきりしている。
「次はじっくり脚をつくって、もう1回勝負します。これで終わったら、面白くありません」
 びわ湖のレースを叩き台に、今後のトレーニング方針が見えてきた。その点は、初マラソンと同様だったのではないか。


寺田的陸上競技WEBトップ