2004/10/23 彩の国まごころ国体1日目
地元、森本がラストハードリング
レース後の一問一答
「結果はもちろん欲しかったですけど、金メダル以上の価値がある大会でした」
Q.今日はどんな思いでしたか?
森本 99年の熊本国体(13秒22・+2.3で優勝)を最後にしようという思いもあったのですが、陸上を通してずっとお世話になってきた(埼玉の)先生方の前で、やってきた姿を見せたかった。去年、ヘルニアで入院したり、(02年の)アジア大会ではレース前に骨折したりと、陸上には運がないな、と思ったりもしましたが、この大会だけを目標にやってきました。結果はもちろん欲しかったのですが、レスリングの浜口さんじゃないですけど、金メダル以上の価値がある大会でした。
Q.大声援でしたが。
森本 それで集中できました。できる限り、それに応えたかった。今までも試合の報告はしていましたが、会社の人にも見てもらいたかった。昨日、(埼玉県選手団に)16年間の競技生活で一番いい日にしたいと、決意表明もしたんです。去年は変にプレッシャーを自分にかけてしまって、結果としてハードルを引っかけて8位でした。今年はやるだけのことをやって、コールのときに「自分のレーンだけ」と先生に言われて、結果がこれ(3位)です。今年は栄のコーチも外してもらって、競技に専念できるようにしてもらっていました。
Q.今後は何をされますか。
森本 何になりましょう? 走ることをまったく、しなくなるわけではありません。この国体をずっと目標にしてきたので、形の上では一区切りをつけたいということなんです。走りたくなったら、またやると思うんです。大学(東学大)に行ったのも、教員になりたかったからなんですが、自分がしてもらえたことを、若い人たちにしてあげられたらいいですね。自分なりに形を変えて、ですね。
Q.特に思い出に残っている試合を、思いつくままでいいので、挙げてもらうことができますか。
森本 まず、全日中ですね。顧問の先生不在で勝つことができました。次に高1の山形国体で勝てたこと。3つ目はハードルじゃないんですが、高3のインターハイでリレーに勝てたことです。4つめは大学2年の世界ジュニアで、記録が悪かったのに連れて行ってもらったこと。5つめが大学3年の関東インカレで、久しぶりに13秒台を出せたこと。6つめは2002年の日本選手権で13秒24を出せたこと。そして7つめが、その年のアジア大会でレース前に骨折したことです。でも、今日が一番緊張しましたし、だけども、やっていて楽しかったです。
森本は早熟選手の苦しさを味わった、代表的な選手ではなかったか。
インタビューにもあるように、森本は中学時代に指導者と巡り会うことができ、全日中に優勝した。大森国男先生(現京セラ監督)にバトンタッチされた埼玉栄高1年時にも国体少年Bに優勝。高校3年時には13秒44と、高校記録を一気に13秒台前半へと高めた。もちろん、100 mHでは無敵状態。
この記録が壁となった。インタビューにもあるように、大学2年時の世界ジュニアに出場したものの、当時は高校卒業後の下降線を描いていた時期。大学3年でやっと上昇機運に転じたが、それでも自己記録に届く気配がない。高校時代の記録が生涯ベストとなるのは、珍しいことではない。
その高校時代の記録を超えたのが、社会人1年目の99年だった。インタビューでは思い出の試合に挙げていないが、その年の熊本国体で引退する気持ちもあったのだから、13秒29と5年ぶりに自己記録を更新した10月1日の日本選手権は、思い出に残っているに違いない。
「当時は坐骨神経痛がひどくて、気力がもつかどうか、という状況で競技をしていました。13秒44の自己記録を更新できた時点で、最後にしてもいいかな、と思えたのです」
しかし、森本はその後も、日本記録保持者の金沢イボンヌを目標に、ハードルを走り続けた。引退の気持ちを持ち続けていたとは、おくびにも出さずに。
個人的な思い出で恐縮だが、富山インターハイの4×100 mR、大学2年時の世界ジュニア、大学3年時の関東インカレ、実業団1年目の日本選手権と全て、取材させてもらっているはずだ。世界ジュニアを除けば、その全てで森本は涙を流していたと確信できた。
「ええ、(思い出に挙げたレース)全部で泣いています」
涙が印象的な選手として、男子の土江寛裕(富士通)と双璧をなす存在だった。その涙は決して、女々しいとか、湿ったものではなく、笑顔の一部のような清々しい涙だった。それが見られなくなることには、どこかしら寂しさも感じてしまう。
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