2004/5/5 水戸国際
中野が春季サーキット大詰めで日本新!
4m31の真実
競技後のコメントを整理して紹介A
「大学では甘い方、甘い方へ流されていたと思います」
■高校時代
高校3年時の96年4月の香川近県カーニバルで3m42・3m50・3m60と日本記録を更新。5月の香川県選手権でも3m61・3m70と立て続けに日本新をマークした。本職の100 mHでは13秒85がベストでインターハイ2位、国体優勝。
「棒高跳を始めたのは高2の冬。ハードルはずっと好きでしたし、転向したとまでは思っていなくて、棒高跳も並行してやっていこうというスタンスでした。大学でも、その延長の感じですね。競技人口の少ない種目でしたし、ちょこっとハードルのスピードがあったので跳べたのだと思います」
■大学時代
東学大1年時の97年には、4月の織田幹雄記念国際で3m70(日本タイ)・3m80と記録を更新し、4m一番乗りの最有力候補だった。しかし、翌98年から小野真澄が台頭し、日本人初の4m台も小野がその年のバンコク・アジア大会で達成した。
大1:3m80(14秒10)
大2:3m65(14秒44)
大3:3m81(13秒95)
大4:4m00(14秒03)
「詫間先生の下で技術を習得できたというわけではなく、棒高跳を始めて1年ちょっとで、不安を持ったまま先生から離れてしまいました。跳べる自信を持って試合には行きましたが、なかなか結果が出ず、気持ちが切れかけた時期もありました。もう、この人たちと同じレベルで争えないのかな、と。体重が増えたり、ケガをしたりと悪循環でした。動き的にも、悪い跳躍で練習を終えるとそれを身体が覚えてしまい、次の練習も悪いところから再開してしまいます。1人で中途半端に跳躍練習をして、悪いところでやめていました。サボることはありませんでしたが、甘い方、甘い方へ流されていたと思います」
「4月からはオリンピックを目指し、練習だけの生活になっています」
■非常勤講師
卒業後は中学や定時制高校の非常勤講師、丸亀の競技場へ勤務。
「小野さんもそうですし、香川の先輩方も教員です。高橋(卓巳)先生はオリンピックも行かれました。教員で競技をやっていけると判断しました。でも、私の場合は、根を詰める練習も必要だったみたいですね」
■養護学校教員
「3月までは養護学校の非常勤講師をやっていました。家は観音寺なのですが、帰ってからだと遅くなってしまうので丸亀(の競技場)に寄って練習し、週末に母校(観音寺一高)に行って跳躍練習をするパターンです。学校に行くと勉強になることも多いですし、子供たちと過ごすのが好きだったので。(契約が終了して)4月からはオリンピックを目指し、練習だけの生活になっています。それもタイミングだったかなと、プラスに考えて受け入れています」
■フルタイムのアスリート
「3月の終業式から1カ月半、跳躍練習をかつてなかったほど行うことができました。それで、安定性が増したのだと思います。それまで跳躍練習は、週に1回か2週間に1回でしたが、今は週に3回くらいはできます。でも、きっちり決めてやるのでなく、試合のスケジュールとその日の体調を見て判断していますね。跳べる天候と体調を考えてできるようになりました。6月中旬からまた、障害児らを対象としたスポーツ教室の指導員の話もあります。(オリンピック代表になったら)待ってくれると思います」
「(養護学校の)子供たちに出会って、自分はもっと頑張れるんじゃないかって…」
■三観地区から
香川県の三豊、観音寺は伝統的に棒高跳が盛んで、数々のインターハイ優勝者、日本選手権者、日本記録保持者を輩出してきた。
「何回も4m22に挑戦する機会を設けてくれましたし、4m30は詫間先生や他のお世話になった先生方の前で跳ぶことができました。それでも、地元だけでなく大きな試合で跳びなさい、自信を持って跳んできなさい、と送り出してくれました。こうして記録を出して、お礼を言う機会に恵まれて嬉しく思います」
■涙
「地元の先生方だけでもないのですが、応援していただいて、試合のたびに考慮していただいて…。感謝の気持ちを早く、形として現せたらいいなと、思っていました(涙)。今回もすごく運営面で配慮していただいて、やりやすかったです」
「自分の身体が動いたり、コミュニケーションが不自由なくとれて当たり前と思っていましたが、(養護学校の)子供たちに出会って、自分はもっと頑張れるんじゃないかって…(涙)。それがわかっただけでも、練習するのと同じ価値があったと思います。“先生、頑張って”と応援してくれたし、職場の人たちにもよくしてもらいました」
春季サーキット2004
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