2004/3/1
高岡と伊藤監督が会見
びわ湖欠場の経緯とは?
そして、高岡の心中は?


 1日14時から山口県防府市のカネボウ鐘和寮において、高岡寿成が伊藤国光監督とともに、びわ湖マラソン欠場の記者会見を開いた。地元・全国双方の新聞各紙、テレビ各局がつめかけ世間の関心の高さをうかがわせた。会見場の鐘和寮はカネボウという会社とチームを象徴するように、歴史を感じさせる外観と内装。
 定刻の14時に高岡と伊藤監督が会場に入ってきた。高岡の髪の毛は、近年では短くした部類に入るだろう。常に笑顔を絶やさないイメージのある高岡だが、ニコリともしない。欠場会見なのだから当然と言えば当然だが。

写真1(伊藤監督と2人)  写真2(正面)  写真3(サイドから)  写真4(会見風景)

 まずは、欠場の判断を下した経緯を伊藤監督が語り始めた。
 実際に故障をしたことが欠場の直接の原因だが、本当の欠場理由は故障ではなく「アテネ五輪でメダルを取るため」であると伊藤監督は強調した。

「びわ湖を目指した当初から、最終的には2月27日の練習を見て判断しようと考えていました。16日に40km走をやって、右足の脛に腱鞘炎を起こしてしまい、19日の診断で骨には異常がないとわかって続行しましたが、27日の20km走で60分23秒と目標タイムを下回ってしまった。レースペースより速い59分台を考えていたのですが、それができませんでした。高岡、トレーナーと相談して、欠場の判断を下しましたが、それは故障という形での欠場ではなく、アテネで金メダルを取るための判断でした。このままびわ湖を走ると患部が悪化するおそれもありましたし、びわ湖の後、期間が短いこともありました。そういった数々の要素を含めて考え、決断しました」

 21日にも40km走をやったが、そこでは2時間10分でこなしたかったという。それが、暑さと風の影響もあって2時間13分台だった。その6日後の20kmが60分台を要し、「ベストの状態ではない」(伊藤監督)と判断したのである。
 福岡で3位(2時間07分59秒)となって以降は、「勝ってアテネに行きたい」という思いで、選考レースへの再挑戦を決めた高岡。元々、“ここを狙う”と決めたら、練習の状況に合わせてスライドするタイプではなく、目指した試合に練習を合わせることができる選手。以前の取材で、試合が近くなった時期の練習がいまひとつでも、焦らずに取り組んでいけばなんとかできる、と話してくれたことがあった。
 そのとき例として口にしたのは、「2週間前の練習が悪くても」というものだったが、今回は1週間前の練習で欠場を決めた。その辺の微妙な差はあってもやはり、高岡だったらなんとかできるのではないか、という期待を持ってしまう。その辺を本人に質問してみた。

「もちろん、一生懸命準備して合わせるつもりでいましたが、当初計画していたものを変えていかないといけない部分が、なかなか難しくて…。3カ月で精一杯準備してきましたが、過去3回のマラソンでは6カ月とかきっちり予定を立ててやってきました。(長期間の)予定を立てて、その通りにできることが僕の“売り”として持っていましたが、今回、合わせられなくなってしまったのは、残念に思っています」

 福岡以降の練習の流れを、伊藤監督が次のように説明した。

「高岡から(もう1回走りたいという)申し出があって、最初は身体を休めることから始めて、ニューイヤー駅伝を使ってスピードを戻そうとしました。アンカーで区間2位でしたから、このままいけば順調に行きそうだとも思い、そのときは(2月の)東京も考えましたが、やはり期間をとった方がいいだろうということで、その後、マラソンのトレーニングにキチッと入っていきました。基本的に6カ月をかけてマラソンまで持っていきますが、今回は1月2月の2カ月しかない。その中に詰め込みすぎたかなあ、という反省もあります。それが腱鞘炎という形で出てしまったのかもしれません」

 当然のことながら、欠場は高岡自身にとっては苦渋の決断だったようだ。

「正直に言えば、監督に走らせて欲しいとも言いましたが、びわ湖は勝負できてこそ、と思っていた部分もありました。監督やトレーナーと相談したなかで、納得して判断しました。代表に選ばれるとか、選ばれないとかではなく、今の状態と、今後勝負していく状況を考えた上で、この決断が正しいと思って決めました」

 “納得して”という言葉を使ったが、高岡は選手である。走ることで自身を表現する立場である。説得したのはスタッフ。同じ目的に向かっていても立場は異なる。考え方にも当然、違いが生じて当たり前なのだ。考え方というより、感じ方と言った方がいいかもしれない。
 選手はあれこれ理屈を考えて走るのではなく、本能で走る。以下のコメントは福岡直後の気持ちだから、今回の決断よりも前の段階だが、高岡の心情を如実に物語っている。

「福岡のとき、勝って代表になりますとお話しさせてもらいました。レース後は負けた悔しさで感情的になっていた部分も含めて、東京があると言いましたが、もう1回どこかで挑戦して、本当に勝って次(アテネ五輪)も勝ちたい、というのが強調したかったところです。それで、もう1回走りますと監督に申し出ました」

 別のチームでも、福岡国際マラソンで代表権を取れなかったある選手が、びわ湖で再挑戦の意思表示したが、スタッフがそれを思い止まらせた。駅伝でも同様の例がある。走っている最中に故障を起こした選手が、どう頑張っても無理だという状況でも、スタッフの制止を振り切って走り続けようとする。走っているときは、とにかくタスキをつなぎたい一心で、客観的な状況判断よりもその気持ちが前面に出てしまう。
 選手は理屈では納得しても、心の奥底では走りたいと思っていることがある。ニコリともしない高岡の心中を推し量るのは難しいが、そんな気がしてならない。


男子マラソン2003-04
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