2004/3/6 びわ湖マラソン前日
びわ湖をステップにしてきた選手たち
旭化成4選手編

びわ湖の水の酸いも甘いも知った小島忠
98年の快走が4回連続サブテンの始まりだった小島宗幸
日本男子マラソンの流れを変えた97年の真内
旭化成国内最高を01年に出した森下由

●小島忠幸(旭化成)
 今回の優勝候補に挙げられている1人。2回目のマラソンが98年のびわ湖で、初マラソンの2時間15分台から12分台に記録を縮め、3回目の98年福岡でのサブテン(2時間09分10秒)につなげた。
 しかし、福岡で代表を決めた99年世界選手権での失敗(36位・2時間24分29秒)でつまずいた。00年東京でシドニー五輪代表を狙ったが大敗(15位・2時間16分37秒)。01年びわ湖で再度2時間12分台を出し、復調のきっかけとするかに見えたが、昨年のびわ湖では35km過ぎで途中棄権。
 本当の復調(ステップアップ)は昨年12月の福岡だった。給水に対する体質の特異性に対処し、クロカンコースでの40km走など、改良点が功を奏して2時間08分48秒の自己新。76年のモントリオール五輪以来続いている旭化成の連続五輪代表を「自分がそれをつなげたい。旭化成は常に、世界を見てきたチームなんです」と意欲を見せている。

●小島宗幸(旭化成)
 びわ湖でその強さをアピールしたのは、忠幸よりも1学年上の兄・小島宗幸だった。4回目のマラソンとなった98年びわ湖に2時間08分43秒で優勝。95年世界選手権金メダルのマルティン・フィス(スペイン、バスクの英雄)に競り勝った……どころか、50秒もの差をつけた。フィスはときおり見られる出場料目当ての外人選手でなく、97年大会から優勝・2位・優勝・優勝と、湖畔のレースに情熱を見せ、自身“第二の故郷”とまで言うくらい、情熱をもってびわ湖を走っていた選手。当時は“世界最強”の評価も得ていた。
 小島宗幸は前半から14分台のスプリットを刻み、中間点が1時間03分08秒という超のつくハイペースに耐え、そのフィスに30kmを過ぎてから競り勝ったのである(弟の忠幸も30kmまではついていた)。そのレースに始まり、98年福岡、99年ロッテルダム、99年福岡と4大会連続サブテンを達成したのだから、びわ湖はまさに、小島宗幸のマラソン人生最大の思い出となるべきレースだった。
 ところが、そこに立ちはだかったのも、ある意味びわ湖だった。シドニー五輪選考会の99年福岡で日本人トップ(4位・2時間09分09秒)だった小島宗幸は、00年びわ湖で日本人トップ(2位・2時間09分04秒)の同僚・川嶋伸次に代表切符を持っていかれた格好に。それが理由ではないのだろうが、その後の小島宗幸は不調に陥り、サブテンは1レースもない。
 しかし、この1年ほどはやっと練習のレベルも上がってきて、今年のニューイヤー駅伝では層の厚い旭化成でメンバー入りするほど、スピードも戻ってきた。弟の忠幸は次のように話していた。
「ずっと調子の悪かった兄も、今回はいいですよ。兄にとっては最後となるかもしれないので、それでお互いに集中してやってこられました。一番良いのは一緒にオリンピックに行くことです。そういうレースが理想ですね」

●真内明(トヨタ自動車九州)
 小島宗幸に負けず劣らず、びわ湖で意味深い走りをしたのが、97年大会で日本人トップの4位となった真内明(当時旭化成)だ。2時間09分23秒は前年までの大会記録を上回り、びわ湖初の日本人選手サブテンでもあった。しかし、その走りの価値は、宗茂監督(現総監督)によれば「真内がそれをやったこと」にあった。
 当時の日本男子マラソンは長期低迷の泥沼にはまりこんでいた。92年バルセロナ五輪は森下広一(旭化成)の銀メダル、中山竹通の4位、谷口浩美の8位と3人入賞の快挙を達成したが、96年アトランタ五輪は谷口浩美の*位が最高。サブテンは散発的に出ても、続けて出せる選手は皆無。そこから抜け出すきっかけが、宗茂監督によれば「普通の選手である真内のびわ湖の走り」だった。
 その効果は特に旭化成に顕著だった。間近に見ている普通の選手である真内がびわ湖での快走をしたことにより、自分にもできるという気持ちになれたのだという。小島兄弟、三木弘、森下由輝、佐保希、佐藤信之と同社からサブテンランナーが続々と誕生したのである。
 ところが、真内自身はその後、世界選手権2回、アジア大会1回(銀メダル)と国際大会の日本代表に選ばれたものの、サブテンがない。今回はその思い出のびわ湖に、森下広一監督率いるトヨタ自動車九州所属で出場する。

●森下由輝(旭化成)
 森下由輝にとってびわ湖は、01年に2時間07分59秒と旭化成の国内最高記録を出したゲンの良い大会。99年福岡で2時間09分36秒を出してはいたが、日本のトップランナーに評価が定まったのはびわ湖だった。その快走で同年の世界選手権エドモントン大会代表となり、8位入賞。しかし、その世界選手権で「オリンピックに出ないと評価されない」と思いを新たにしたという。今回が10回目のマラソン。


男子マラソン2003-04
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