2003/1/1 全日本実業団対抗駅伝
防府マラソンから2週間で出場した梅木が快走
中国電力の駅伝に対するスタンスとは


 佐藤敦之の欠場により苦戦を強いられた中国電力だったが、アンカー梅木蔵雄が快走。区間賞こそドゥング(ホンダ浜松)に譲ったが、45分13秒(15.7km)の好タイムで区間2位。中継時には54秒差があった日清食品・大西雄三を猛烈に追い上げたが、残り1km余りのところで大西が梅木の追い上げに気づいて踏ん張り、抜くことはかなわなかった。しかし、中国電力は日清食品に9秒差まで迫る3位となり、次回を期待させる結果となった。その梅木だが、ニューイヤー駅伝の僅か2週間前、12月15日の防府マラソンに出場している(2時間14分50秒で7位)。そこに、中国電力の駅伝に対するスタンスが表れていた。
 梅木は2002年に1万mで28分29秒63、ハーフマラソンで1時間02分05秒と好記録を出している(ともに自己新)。尾方剛・油谷繁・佐藤の“3本の矢”(陸マガ1月号参照)には及ばないまでも、決して控え候補ではない。駅伝で戦力となる選手は通常、2週間後に駅伝を控えると、なかなかマラソン出場には踏み切れない。ましてや、今回の中国電力は初優勝のチャンスだったのだ。
「梅木は何回もマラソンに失敗しています。今後も本当にマラソンでやっていけるのかどうか、彼にとって重要なレースでしたから」
 レース前日に、坂口泰監督は防府出場に踏み切った理由をこのように説明してくれた。梅木のマラソン全データは不詳だが、2000年の東京と福岡は2時間24分台と27分台、01年のフランクフルトは2時間18分台だった。5km14分50秒〜15分10秒のペースとなる福岡・東京・びわ湖で進退を賭けるのは、リスクが大き過ぎたのだろう。2時間14分50秒で7位という結果は、「59点か60点。ぎりぎりで及第点」(坂口監督)だった。
「(全日本実業団駅伝が12月中旬開催だった)昔は福岡国際マラソンに出て、2週間後に駅伝に出るのが当たり前でした。マラソンが走れれば、駅伝は走れるんです」
 というのが、坂口監督の持論。11月末(中国地区予選終了後)には、“今回のニューイヤー駅伝は、何が何でも勝ちに行きますか”という質問をぶつけたことがある。それに対する答えは「せかせかして、何が何でもというのはない。やってきたことを出して、優勝を呼び込みたい」というものだった。

後編(梅木個人編)
 当の梅木自身は防府が終わった後、「爪の先が引っかかった感じです。監督にもなんとか“マラソンやっていいよ”と、言ってもらえました」と、胸をなで下ろしたと。そして、すぐにニューイヤー駅伝に気持ちを向かわせた。
「確かに(2週間の間隔は)きつかったですけど、すぐに気持ちを切り換えました。2〜3日は疲れも大きかったんですが、軽めの調整をして、群馬入りする前は調子も良く、どの区間でも行けると感じていたくらい。最初は6区へ出場する話もあったんですが、自分としては長い距離の方が対応しやすいと思っていました」
 今回の防府マラソン・ニューイヤー駅伝の両大会で見せた走りから、梅木には“力が付いた”と判断できるだろう。「マラソンが走れれば駅伝も走れる」と坂口監督が言う選手は、全ての選手に当てはまるとは思わない。タイプ的に両方を短期間で走れない選手はいるだろうし、何より、それだけの力がなければできないのではないか。その視点から見て、梅木には“力が付いた”と思えたのである。
 元々、早大4年時には箱根駅伝2区で区間賞を取った選手。渡辺康幸(エスビー食品)が「2区で1時間6分台を出すには、1万m27分台の力が必要」と言ったことがある。梅木の記録は1時間07分48秒(2区歴代7位)。昨年、入社5年目で出した28分29秒63程度の記録は、とっくに出していなければいけなかった。
「(箱根2区の区間賞で)潜在的に満足してしまったのかもしれません。が、大学と実業団ではレースの流れが基本的に違います。大学は遅いペースで入りますが、実業団は最初からガンガン行く。練習でもそうですね。僕は、順応が遅いんです」
 そういえば、早大時代に梅木が活躍したのも、4年生になってから。それが、実業団では5年目だった、ということか。結婚(02年1月)を機に梅木は強くなった、という意見もあるが…。
「結婚して気持ちを新たにしたのは確かです。家庭を持って、支えていかなきゃならない、という自覚が出ました。でも、以前から継続してやってきたことの結果が、3月の全日本実業団ハーフマラソンから出始めたんでしょう」
 早大4年時には、チームメイトから“梅木ング”と呼ばれていたらしい。そのくらい強かった。それがチーム内でなく、全国的に“梅木ング”と呼ばれる日が来るのは、間近に迫っているのかもしれない。


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