ATSUYAなメール
その7
2002年6月8日

7cmの悲喜こもごも

寺田さま

連日の日本選手権取材、ご苦労さまです。
本日は一つ、残念なことがありました。

それは6月8日、平穏な土曜日の午後のことでした。
尼崎市内での取材を終え、超特急で職場に戻った私は、
テレビのチャンネルを日本選手権に合わせました。
ちょうど、われらが神戸市民の誇る坪田智夫が10000mを
制してゴールする瞬間でした。
「よしっ!」と拳を握り、テレビに見入りました。

100mは新井初佳が勝ったようです。
「よしっ!よしっ!」と拳を握り、テレビに見入りました。
「よしっ!」が一つ多いのは、寺田さんの優勝者予想が外れたからです。

続いて、砲丸投げの結果が出ました。
「よしっ!…あっ……」。私はうれしさと、無念さが交じり合った声を上げました。

理由は我が小野高校陸上部の同期にして、現役プッターの大山圭悟が16m51で
4位だったからです。

1989年の兵庫インターハイ兵庫予選フィールドの部を制し、総合6位に入った
我がチームのポイントゲッターとなったのは、砲丸投げ、円盤投げの2種目を
制した大山でした。小柄ながら流した汗と涙の数は世界一の男でした。
地元開催のインターハイには進めませんでしたが、4月で32歳になった今でも、
自己ベストを更新し続けている「進化するプッター」です。16m42のベストで
3位に入った兵庫リレーカーニバルで久々に再会し、元気な姿に安心したばかり
です。それが、日本選手権でも自己ベスト、そして4位。うれしくないはずがありま
せん。

しかし、1位の畑瀬聡の記録を見て、ため息が出たのです。
「7cm差やんか…」

私の夢は、35歳までに大山が日本チャンピオンになることでした。
関係者を呼び集め、「大山の日本王者を祝う会」の事務局長を
するのは、私をおいてほかにはいないと思っていました。

それが、わずか数cmで届くところにあったのです。
勝負の世界に、「たら」「れば」はありません。
大舞台で自己ベストを更新した大山の成績には大満足なのです。
それでも…。寺田さんの優勝者予想を、我が同級生が覆してくれたら
どんなにうれしかったことか…。

とはいえ、私は確信しました。
「大山は必ず3年以内に自分の夢をかなえてくれるはず」。
亀のようにゆっくりと歩んできた道程です。
「あと7cm」と思えば、ゴールはすぐそこにあるような気がしませんか?
その7cmの厳しさは、当の本人が一番分かっているでしょうが…。

やっぱり、私は競技場にいなくてはいけません。
日本選手権で大山優勝のあかつきには、
解説・O県貢さん、取材・O原の「小野高トライアングル」
で競技場を席巻することでしょう。

それでは、お仕事頑張ってください。

K新聞 O原A也

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