2001/4/22
ロンドン・マラソン最大のスクープ!!
「犬伏孝行、スタートライン上の真実」の解説記事

 犬伏孝行(大塚製薬)が経験したインターハイは、仙台だった。今から11年前の1990年のことである。その頃から、いつかはロンドン・マラソンのスタートラインに立ちたいと考えていた。
 
仙台インターハイに出たのは事実ですが、当時、ロンドン・マラソンを目標にしていたわけではありません。

 その年、インターハイ四国予選の5000mで優勝し、やれる感触をもって仙台に乗り込んだ犬伏だったが、5000m決勝ではまさかのブービー(最下位から2番目)。7月に「これまでで最もひどい症状だった」という風邪をひき、何日も寝込んだことが大きく影響したが、それでもショックは大きかった。
 犬伏は「仙台インターハイの結果で、大学進学ではなくて、実業団入りすることを決めた」と、競技生活の分岐点となったことを明かしている。
 この段落は、全て事実です。

 あまり知られていないことだが、犬伏は俳人でもある。
「入社して配属された部署の顧問の方が、俳句の会を主宰されていて、『陸上だけじゃだめだ』と勧められて、入会したんです。本とかも読んで、季語の使い方とか覚えましたよ。半年くらい活動していました」
 この部分も、全て事実です
 前年の仙台インターハイの帰り、松島に寄ったことを思い出した。そういえば、奥の細道で有名な江戸時代の俳人、松尾芭蕉は
「松島や、ああ松島や、松島や」
と、あそこで一句詠んだんだなと、妙な感慨に襲われた。
 そこで、自分はブービーだった。そして走ることを生業とする、プロのランナーの道を歩む決心をした。いつか、ロンドンのスタートラインに立つことを夢見て…。
 
ここは、完全な作り話です。

 80年代後半、瀬古利彦(86年)、谷口浩美(87年)と、ロンドンは日本選手が活躍するレースだった。10代の犬伏も、そのレースにあこがれた。88年の陸マガを見ると、自己最高で3位の工藤一良(日産自動車)がビッグベンの脇をさっそうと走っている写真も、デカデカと載っている。工藤も自分と同じ、大学を経ないで実業団入りし、たたき上げられた選手だ。
 瀬古、谷口、工藤の説明はもちろん事実ですが、犬伏が彼らに憧れたというニュアンスは、事実と違います。犬伏が最初に憧れたマラソン選手は、森下広一でした。

 ロンドンは世界の一流選手が集う大会だ。記録を狙うのが目的ではない。オリンピックに出るためのレースでもない。記録は2年前に、ベルリンで出した。五輪選考レースも勝ち抜いた。だが、オリンピック本番では、途中棄権に終わっている。
「オリンピックの途中棄権はリセットできないこと。でも、それを引きずっていても意味がありません。マラソンは1年に2本しか走れないし、1つ1つが挑戦です。ロンドンは、世界の流れに身を置くことができるレースです」
 気持ちを新たにスタートする場が、ロンドンとは、巡り合わせに不思議な縁(えにし)を感じた。かつて、ロンドンに憧れていた10代の頃を思い出しながら…。
 コメント部分までは事実ですが、コメントのあとの部分は作った部分です。

 4月22日、グリニッジのスタート地点に立った犬伏は、感慨深げだった。周りを見れば、ピント、アントン、エルムーアジス、そしてテルガトと、錚々たる顔ぶれだ。いろいろな思いが、脳裏をよぎる。そして、9時30分のスタート。犬伏は一句、詠まずにはいられなかった。
犬伏「ロンドンや、ああロンドンや、ロンドンや」
河野匡監督「何を言っとんのや。よーいドンや」

 もちろん、完全に作った部分です。


インサイドtheアーティクル記事の内側
 このジョーク記事の骨子となる部分は、ロンドン出張出発数日前に思いつきました。なぜか、犬伏選手がロンドン・マラソンのスタートライン上で俳句を詠む、というシチュエーションが頭に浮かんできたのです。そのときは、犬伏選手が入社直後に俳句の会に入っていたことなど、まったく知らなかったのです。
 スタートラインで俳句を詠むのなら「ロンドンや…………」がいいかな。それを聞いた河野監督が「よーいドンや」と言ってオチをつける。ここまでが思い浮かび、実際、2人の方にメールで送って、どんな反応か聞いています。
 次の段階というか、肉付けの部分を成田空港に向かう小田急線の中で思いつきました。そういえば、犬伏選手の経験したインターハイが仙台だったな、だったら松島に観光で寄ったかもしれない、というふうに連想していって、骨子が決まりました。
 そして、ロンドンに着いて河野監督にこのジョーク記事のことを話し、犬伏選手が俳句の会に入会していたことを知ったのでした。河野監督も、寺田がてっきり俳句の会のことを知っていて、この話を思いついたのだと思われたようです。でも、本当に知らなかったんです。
 犬伏選手の成績が悪かったら、掲載しないつもりでしたが、レース後の取材で本人もまずまず納得している様子がわかり、レース翌日に本人の許可を取った次第です。