陸上競技マガジン2001年1月号
人間アプローチ 土佐礼子
“おっとりキャラ”のしっかり者

取材:2000年11月下旬
 東京国際女子マラソンで2時間24分47秒、日本人トップとなって世界選手権代表第1号に決まった土佐礼子(三井海上)。学生時代は日本インカレ5000m12位があるが、全国的には無名といっていい選手だった。わずか1年半でここまで成長した土佐とは、どんな過程で強くなり、どんな考え方をする選手なのだろうか。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆中見出し◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 1990年代後半のある日。松山大の学生だった土佐礼子はただ1人、母校・松山商高の生徒に混じって練習をしていた。メニューは1000m×5。松山商高の竹本英利先生は3分15秒にタイムを設定していた。「3分15、16、17、18……」竹本先生がタイムを読み上げるなか、高校生が次々に走り終えていく。土佐は5番目、3分20秒〜25秒で走るのが精一杯だった。
 松山大は土佐が入学する際、駅伝を強化するプランがあったが、コーチに就任する予定だった指導者が体調を崩し、その計画は頓挫していた。男子は熱心に練習をしていたが、女子には指導者が付いていないし、駅伝チームを組む人数もいない。練習はロングジョッグがほとんどだった。
 練習場は松山商高と一緒になることが多かった。土佐の顔を見ると竹本先生が声をかける。「昨日、練習何やった? 一昨日は? そうか、じゃあ今日は一緒にやらないか」――。こうして、1000mを5本やることになる。
 土佐は高校時代、3000mでインターハイに出場している。ベスト記録は9分41秒05。土佐が松山商高に入学した年に竹本先生が着任し、3年目には全国高校駅伝に初出場を果たした。それ以降全国大会の常連になる松山商高だが、土佐よりタイムがいい選手が何人もいたわけではない。
 だが、「高校時代の方が強かったですね」と竹本先生が言うように、土佐のスピードは明らかに落ちていた。一緒に走ると何人もの高校生が、土佐の前を走って行く。そんな練習光景が週に2〜3回、繰り返されていた。
 2000年11月19日。香川県坂出で四国高校駅伝が行われていた。愛媛県大会で優勝し7年連続全国大会出場を決めていた松山商高は、トップと同タイムの2位でフィニッシュ。その閉会式の最中、会場をそっと離れた竹本先生はテレビ画面に目をやった。松山を離れて僅か1年半しかたっていない土佐が、1km3分20秒を切るペースでマラソンを走っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆中見出し◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 1999年4月の入社当時、土佐はマラソンに関しては「どこかで1回走れたらいいな」くらいの気持ちでしかなかった。三井海上の鈴木秀夫監督は当時を次のように振り返る。
「最初の2カ月間は、特に将来性とか感じなかったですね。5月の東日本実業団まで1500mをやっていましたが、自己記録を1〜2秒更新したくらい。トラックをやっても通用しそうになかったし、年齢もすでに22歳でしたから、“マラソンやるか?”って聞いてみたんです。“やります”とすぐに答えたので、ちょうど市河(麻由美・三井海上)が世界選手権(セビリア)に向けてボルダー合宿に行くところで、一緒に連れていきました」
 6月上旬から40日間の高地練習。ここで、土佐は急激に強くなっていった。ボルダー・リザヴォー(貯水池)周回やマグノリアなど、練習コースの記録を次々に更新。市河が自信をなくさないよう、一緒に練習しなかったほどの強さだったという。
「埋もれている選手っているもんだな」。鈴木監督は土佐の練習を目の当たりにして、しみじみと感じた。
 帰国して7月18日、札幌国際ハーフマラソンで6位。10月の世界ハーフマラソン代表となり、パレルモ(イタリア)で行われた本番でも6位入賞。タイムは1時間10分59秒から1時間09分36秒(日本歴代11位=当時)に。
「札幌は初めてのハーフマラソンでしたから、“どれだけ走れるのかな”、という気持ちで出場しました。世界ハーフはお祭り気分。入賞なんて狙っていませんでしたよ。“入賞できればいいな”、くらいの気持ちでした」
 帰国後、マラソンの準備に入ろうとしたが、11月の国際千葉駅伝の1区(10km)に抜擢された。
「“なんで私が”と思いました。世界ハーフで10kmを33分台後半で通過していましたが、それまでのベストは34分台でしたから」
 競技レベルの変化に戸惑う土佐。国際千葉駅伝出場(32分15秒で区間5位)のため、マラソンを1月の大阪から3月の名古屋にスライドさせる必要も生じてしまった。
 だが、それだけのことをする価値はあった。当時の土佐は、実業団に入って半年たったところ。自分が国際レベルの選手になる自覚などまったくない状態だった。本人はそれほど意識しなかったかもしれないが、国際レースを経験することで、徐々に世界を視野に入れることになっていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆中見出し◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 99年12月中旬から2000年1月中旬まで、中国・昆明で高地練習を行なった。初めて異国の地で迎える新年。それもマラソンのための合宿だ。プロのランナーらしい境遇といえた。大学3年時に愛媛マラソンに出場しているため、名古屋は2回目のマラソンだったが、実質的には初マラソン。
「2時間26分26秒の初マラソン日本最高は最低でも破らせたかった」と鈴木監督。その前年、市河が日本人トップの2位となって世界選手権代表を決めたが、その時の最初の5kmが16分55秒。土佐はそれ以上の練習ができている。
「高橋(尚子・積水化学)について行け」。鈴木監督はなんのためらいもなく指示を出した。
 さすがに高橋の中間点からの急激なペースアップにはついていけなかったが、35kmと40kmまでの5kmは16分台でカバーした。さらに、ラスト2.195kmは高橋を3秒上回り、2時間24分36秒で2位。「練習でも後半の粘りはすごい」と言う鈴木監督の言葉を実証した。
 名古屋の1カ月後からトラック・レースにも積極的に出場。4月末の兵庫リレーカーニバル1万mは32分15秒63で9位。5000mでも15分37秒08を5月にマークした。もちろん両種目とも自己新記録だ。
 そして6月からボルダーに。7月に一度帰国したが、再度渡米して8月まで滞在。8月には故障で3週間ほどウォーキングしかできなかった。しかし、その後は順調で、9月末から1カ月間の昆明合宿で仕上げ、帰国してすぐ出場した東日本実業団女子駅伝5区で区間1位の快走を見せていた。
 そして迎えた東京国際女子マラソン。持ちタイムは日本選手で一番。外国勢が引っ張らなかった場合、自らペースを作り、最初の5kmを16分40秒で入るつもりでいた(P***参照)。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆中見出し◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 1年半前、土佐が三井海上に入って実業団選手として走ることを聞いた松山商高のある先生が、「あの子、あんなにボヤーっとしてるけど、大丈夫?」と、竹本先生に聞いてきたという。その性格は今も、さして変わっていないように思える。彼女と話をすると、とにかく“おっとり”しているのだ。
 高校時代、竹本先生の影響で全国高校駅伝出場を目標にしていたが、インターハイについては「出られたらいいな」くらいの気持ちだった。学生時代、中四国インカレ5000mでは3、3、3、4位とかなりの成績を残しながら、日本インカレはやはり「出られたらいいな」くらいの存在だった。入社時のマラソンに関する目標でも、世界ハーフでも、彼女には「……できたらいいな」というコメントが多い。「なにがなんでも」という貪欲さがないのだ。
 世界選手権のマラソン選考レースを、冒頭で紹介した大学時代の1000m×5のペースで走るなど、彼女にとってはものすごい意識変革のようにも思えるのだが…。
「監督に16分40秒で走れると言われても半信半疑でした。でも、練習のタイム設定は監督任せですし、今回のペースも不安でしたが、監督は頭の中で計算しているから大丈夫なんです」
 コーチへの信頼感は、高橋尚子と小出義雄監督のそれと似ている印象を受けた。
「プロ意識ですか? ありますよ。入社したとき、駅伝でテレビに映らないといけないと考えていました。合宿に連れていってもらったり、皆さんに応援してもらったり、マラソンになれば監督もつきっきりで面倒を見てくれたりしますから、結果を出さないといけないと思っています」
 プロ意識というよりも、彼女の誠実さを表すコメントのような気がした。だが、竹本先生の次の話を聞いて、彼女の印象が少し変わった。
「土佐は高校を卒業するときに実業団に行きたかったようなんです。ご両親の希望で進学しましたが、大学時代もずっと、実業団で走りたい希望を持っていました。走りと一緒で、気持ちがねばり強い。1人で高校生に混じってなんの抵抗もなく練習できるのも彼女のすごいところです。合宿に一緒に行くかって聞くと、ふたつ返事で参加していました。他校との合同合宿でも『松山商7年生の土佐です』って、平気で挨拶しますからね。どの代の選手にも人気がありましたよ。特に走るのが好きとか口にはしませんが、走り続けるのが彼女には本当に自然なことなのです。肩肘張ったところがないから、息切れしないのでしょう」
 おっとりした自然体ながらも、芯の強さが感じられるエピソードだ。
 取材の最後に、世界選手権の目標を土佐に聞いてみた。
「自己記録を出せたらいいですね」
 アテネ・オリンピックは?
「行けたらいいですね」
 なるほど、土佐は土佐だった。

<データ>
1976年6月11日生まれ
O型
167cm 45kg
<マラソン全成績>
順・記録  年月日     大会
1)2.54.47. 1998年2月22日 愛媛
2)2.24.36. 2000年3月12日 名古屋国際女子
2)2.24.47. 2000年11月19日 東京国際女子
<年次別ベスト>
3000m  5000m   1万m
1992(高1)10分4*秒*
 93(高2)9分49秒1
 94(高3)9分41秒05 17分29秒24
 95(大1)      17分54秒00
 96(大2)      16分56秒19
 97(大3) 16分51秒**
 98(大4)      16分35秒**
 99(実1)      15分47秒40
2000(実2)      15分37秒08 32分15秒63
<主要大会成績>
1992(高1)愛媛県高校駅伝1区5位
 93(高2)IH愛媛県大会3000m1位 愛媛県高校駅伝5区1位
 94(高3)IH全国大会3000m予選2組10位 全国高校駅伝2区22位
 95(大1)中四国IC5000m3位
 96(大2)中四国IC5000m3位 日本IC5000m27位、同1万m途中打ち切り
 97(大3)中四国IC5000m3位
 98(大4)中四国IC5000m4位 日本IC5000m12位
 99(実1)世界ハーフマラソン6位、全日本実業団女子駅伝1区7位
2000(実2)兵庫リレーカーニバル1万m9位、水戸国際1万m4位