サンデー毎日増刊「ニューイヤー駅伝2002公式ガイドブック」
COMES UP HERO
[特別インタビュー藤田敦史]

夢の途中。

故障と再生
 2001年8月のエドモントン世界選手権。藤田敦史の周囲には棄権を薦める声もあった。1カ月ほど前から座骨神経痛が出てしまい、追い込んだ練習ができなかったのだ。だが、藤田はスタートラインに立った。
藤田 世界選手権で何が一番印象に残っているかと言ったら、痛みですよね。痛みというより違和感なんですが、完全な状態でスタートラインに立てず、悔やむしかありませんでしたが、“走らないことには次につながらない”と思って棄権はしませんでした。気持ち的には次につながったと思っていますが、僕の体にしてみたら、走らないでいてくれたほうがよかったと思っているでしょう。走らなければもっと早く治って、復活も早かったかもしれない。でも、走らなかったら、気持ちが下がっていったと思うんです。やっぱり、走るうえで“気持ち”って大切だと思うんです。雰囲気の高まった大会、応援のすごいレースで走れるのは、気持ちが走りに影響するからだと思います。
 世界選手権のレース翌日は歩くこともままならず、“これはやっちゃったかな”とも思いましたが、幸い痛み自体は早くとれました。8月いっぱいは全然走らず治療に専念するつもりでしたが、ジョッグはすぐにやっていました。スピードはゆっくりでしたけど。(寮の近くの)花見川の土手を走っていたら、ジョガーのおじさんに抜かれてしまったくらいです。抜いたあと、おじさんが振り返って「あーっ、見たことある」っていう顔をするんです。違和感が強いというか力が“抜ける”感じで、それくらいでしか走れなかった。
 しかし、日を追うごとによくなって、9月になったら“抜ける”感じがなくなりました。9月末にはインターバル練習もできるようになって、10月に西湖(山梨県)の合宿でわりと走り込むことができました。西湖は世界選手権の前に、座骨神経痛が出た練習場所です。さんざん痛い思いをしたイヤーな思い出がある。縁起が悪いかなと思ったんですが、あえてそこで頑張りました。10日間で500kmくらい走って、10月をトータルすると1100kmくらい。タイムでなく距離で追い込んで、そして調整して、ようやく(東日本実業団)駅伝に間に合わせました。

勝利と敗北
 藤田は再起する過程に、実業団駅伝を組み込んだ。駒大から富士通に入社して3年目。1年目(2000年)のニューイヤー駅伝はアンカーで登場して初優勝のテープを切った。2年目は5区で区間賞を取ったが、先行するコニカを逆転できず、チームも2位に。
藤田 ニューイヤー駅伝の印象は、向かい風が強いこと。前回コース変更があって、その結果2年連続で真正面から風を受けることになりました。大学2年の箱根(2区)も相当強かったですけど、比べものになりません。止まりたいくらいでした。1年目は55秒差でタスキを渡されて、“自分次第”(で優勝が決まる)という位置でした。1分ちょっとあると聞いていたんですが、実際は50秒台で、この違いがけっこうプレッシャーでしたね。
 向かい風でペース感覚がまったくなくて、(1kmあたりマラソンよりも約10秒遅い)3分10秒とかかかって、やばいなーと思いながら走っていました。調子自体も最悪でしたが、でも優勝しなければいけない。追ってくるのが旭化成の佐藤(信之・前年の世界選手権マラソン銅メダリスト)さんでしたから、あの状況であの風は、一種の極限状態でした。沿道のスタッフが後ろとのタイム差を教えてくれるんですが、どんどん詰まってきて、30秒とか言われて…。
 最後の3kmで左折して横風になり、3分を切るペースになったんです。結果的に終盤で差を少し広げましたが、前半で詰められても後半ペースアップする、なんて計算はしていませんでした。“いっぱい、いっぱい”で走っていました。
 2年目(2001年)は37秒差でタスキを受け、追いつくくらいの気持ちで行ったんですが、マラソンの体になっていて(1カ月前の福岡国際マラソンで2時間06分51秒の日本最高)、一定のペースでは押していけるんですが、最初からガツンと入ることができませんでした。序盤で50秒くらいまで離されて、中間点を過ぎて向かい風になったら前のペースが落ちて、後半20秒差くらいまで詰まったんです。“これでいけるかな”と思ったんですが、僕もいっぱいになってしまい、前もスパートしたらしくて差がつまらなくなってしまいました。本来なら、僕の区間で追いついておかないといけなかったんです。

※この続きは12月14日発売のサンデー毎日増刊「ニューイヤー駅伝2002公式ガイドブック」をご購読ください。

この続きの内容は以下の通り。
ニューイヤーと箱根
学生ーと実業団
過程と結果
ライバルと自分
トラックとマラソンとこれからのこと