サンデー毎日増刊「女子駅伝2001公式ガイドブック」
SPECIAL EDITION
[注目のニューヒーロー]

進化する瞬間、進化する理由。
土佐礼子と渋井陽子

 2000年12月10日、岐阜。土佐は駅伝の喜びを噛みしめていた。
「駅伝はみんなで喜べますからね。だからいろいろな気持ちが盛り上がるのだと思います。個人のレースとは違った感じで喜べます」
 土佐が任されたのは5区の11・6km。レース全体の流を決める3区(10km)が前半のエース区間なら、5区は後半のエース区間。レースの帰趨を決することも多い。
 コースは新揖斐川橋、五六川橋、そして長良川にかかる穂積大橋と、橋を渡るたびに10m前後のアップダウンがあるが、全体的には平坦といっていい。弱い追い風。普通なら沿道の観衆から、「2位とは何秒差!」という声がかかるものだが、雨で観衆も例年より少なめだったし、声も届きにくい。
「走っている最中は何秒差なのかわかりませんでした。自分の調子がよくわからなかったんですが、後ろから追いつかれないように必死でした。次の内藤(由嘉)に渡す時点で最低50秒差は欲しいと言われていましたから。山本(波留子)がケガで走れなくなって内藤に代わったんですが、その分、みんなで貯金をしようと話し合っていたんですよ」
 区間賞こそ10秒差で逃したが区間2位の好走で、2位チームとの差を36秒から51秒に広げた。アンカーの内藤は区間17位と振るわなかったが、危ないシーンはなく、三井海上は前年の18位から一気に頂点に立った。
 土佐にとって初めての全国優勝。その時の気持ちは、強いていえば高校3年の愛媛県高校駅伝に優勝したときの感激と近かったかもしれない。愛媛県では当時、済美高が連続優勝を続けていた。松山商高は土佐の入学した年に本格的な強化が始まり、土佐が3年時に初めて済美高を倒すことに成功。初めて全国高校駅伝に駒を進めた「高校時代一番の思い出」(土佐)だった。

中略

 1999年12月12日、岐阜。全日本実業団女子駅伝前半のエース区間、3区10kmを任された渋井だったが、足取りは重かった。駅伝ではなく、マラソンと見まがうようなスピードだった。
「中継所にたどりつかないんじゃないか、と走っていて思いました」
 34分22秒で区間24位。チームの順位も14位から17位に落とした。今の渋井から見たら、考えられないような体たらくだ。
「とにかくやる気がなかったですね。目標もなかったですし、(オーバー気味だった)体重がどうのとかいう以前の問題でした。競技をやめる一歩手前でしたから」
 那須拓陽高時代、全国高校総体3000m5位、全国高校駅伝の1区(エース区間)3位。渋井は高校トップレベルのスピードと実績をもって、三井海上に入社した。97年のことだ。しかし、順風満帆とはいかなかった。時おりよくなったかな、という走りを見せるものの、全体としては低迷する日々が続く。「練習したことがレースに出ない」とストレスを感じることもあった。精神的には完全に閉塞状況に陥っていた。
 競技人生にピリオドを打つ寸前だった渋井に、最後のチャンスが訪れた。

中略

 しかし三井海上は、その前年の実業団駅伝では18位のチーム。指揮をとる鈴木秀夫監督でさえ、チームがそこまで変貌を遂げるとは「完全に予想の範囲外」だったという。その象徴が前半のエース区間である3区を2年連続走り、区間24位から区間賞に躍進した渋井ということになるのだが、彼女を含めたチーム大躍進の秘密はどこにあったのだろう。
「それまで、集団でやって強くなろうとしていたんですが、結果的に全部が中途半端になっていました。それで、柱となる選手を個人的に強化しようと考えたのです。合宿も目の行き届く人数で、マンツーマンに近い形で行うようにしました」
 それは、マラソンを目指す合宿と重なる部分が多かった。99年12月の昆明合宿は、土佐のマラソン用の合宿だったが、渋井を同伴させた。「土佐先輩がすぐ隣で頑張っているわけですから、サボるわけにはいかないじゃないですか。2人しかいないんですから」と、渋井はその合宿を振り返る。

後略

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