陸上競技マガジン2002年3月号
大阪国際女子マラソン FOCUS
[弘山晴美]
33歳の再生
2年前の大阪。シモン(ルーマニア)とのデッドヒートに2秒差で敗れた弘山晴美(資生堂)は、2時間22分56秒(日本歴代3位)の好記録を残しながらシドニー五輪代表になれなかった。あれから2年。同じ2位でも、レース後の表情は違っていた。夫の弘山勉コーチにも同席していただき練習の流れ等を聞くと、2年前との違いや特徴あるマラソン観が浮き彫りになった。
自分のリズムで走っていたら前に出た
4人の集団の中で弘山晴美(資生堂)が先頭に立ったのは、大阪城敷地内から一般道に出るあたり、28km過ぎだった。2年前は37kmでスパート。その前から余裕がある状態だったのに、抑えてしまった。30km付近から自分のリズムで走っていたら――という反省が残ったのも事実だ。今回は、大阪城を出た29km付近から、自分のリズムに身を任せた。その結果、30km手前でロバ(エチオピア)を、30km過ぎでアレム(同)を振り切った。
弘山「大阪城までは、特にリズムと言い聞かせていたわけではありません。最短コースを走ろう、少しでもロスをなくそう、と考えていたら自然と前に出ていたんです。外国選手って、そういったことにこだわっていないんですね。大阪城を出てからリズムを意識しましたが、2年前の反省ではなくて、他の選手に合わせるより自分のリズムで走った方がいい、と思ったんです」
勉コーチ「並走だったらよかったんですが、完全に前に出ていたので“逆だろう”と思いました。彼女自身、レース前のインタビューで“最後で勝ちたい”と言っていたので、貯める作戦だったはずです。余裕があればともかく、引っ張るとは思わなかった」
弘山「余裕はあったんです」
勉コーチ「2年前は100 %とは言いませんが、それなりに練習ができていました。それに比べて今回は、長い距離はそんなに練習でやってないし、記録も狙う必要はないわけだから、貯められるだけ貯めて勝負に徹した方がよかった。まあ、本人じゃないと余力はわからないわけですが。30km地点で500 m近く並走して“抑えろ!”と声をかけたのですが、反対車線だったので声が届かなくて…」
弘山「いたのもわかんなかった。自分のリズムで走っていたら前にいたので、そのまま行った方がいいかなと」
今回は練習していませんでした
2年前は前年8月のセビリア世界選手権(1万m4位※誌面では19位となっていますが、正しくは4位)から実業団駅伝、そして大阪国際女子マラソンと、大きな休みを挟まなかった。長年やってきたことで体に染み付いているトラックのリズムを維持しながら、マラソンの走り込みをして成功したのである。大きな休みを挟むよりも、故障も少ないのだという。
今回も大きな流れは一緒だった。12月9日の全日本実業団女子駅伝は、5区で区間6位。個人成績だけでなく、初優勝を目指していたチームも、4位と不本意な成績に終わった。この駅伝後、予定の練習をこなすことができない事態に陥ってしまった。
弘山「駅伝が思った以上に走れず、ちょっと落ち込みました。それまでは、“大阪では記録も”と意気込んでやっていたのですが、ちょっとトーンダウンですね。練習も故障しないように、身体と相談しながらのんびりやっていこうかなと。たぶん、駅伝で走れていたら、いい気になって距離走もバンバン飛ばして走って…」
勉コーチ「故障をしていたかもしれません。駅伝は練習を欲張りすぎて、疲れが残ってしまったのでしょう。それで練習を見直しました。駅伝のあと距離走をすぐにやる予定だったのを、1週間ズラしたんです。さらに、再開一発目の30km走も、胃の調子がおかしくなって20kmジョッグに変更せざるを得ませんでした。当初は年内に1本、年が明けてから1〜2本、全部で3回くらい40km走ができたらなあと考えていましたが、結局できなくて、今回、距離走は30km走を6本だけです。2年前はもっとやりましたね。30km走は10回、35kmを1回、40kmを2回と。10km3本っていうのもやりました」
弘山「振り返ってみると、今回は練習していませんねえ。すいません、ですね。ウォーキングも少なかったし」
勉コーチ「ペースも遅くしたから、マラソンシューズは履かなかったんです。底の厚いシューズで走っていた」
弘山「マラソンシューズで距離走を2回やると、底の厚さが……
※この続きは2月14日発売の陸上競技マガジン3月号をご購読ください。
この続きの内容は以下の通り。
大きかった、夏場の対1万m練習
最後まで、あきらめずに追った
マラソンを走ろうという気持ちが、より強く