陸上競技マガジン2002年1月号
福岡国際マラソン 密着ルポ
[高岡寿成 アテネへのメダルロード]

31歳のマラソン初挑戦

 5000m日本記録保持者として入社したときから、マラソンは目標だった。アトランタ五輪後にも転向を真剣に検討した。だが、「トラックを極めよう」と思い直した。シドニー五輪1万m7位入賞と、翌2001年春の日本新。もう思い残すことはない。12月2日、福岡・平和台競技場。高岡寿成(カネボウ)、31歳のマラソン初挑戦が始まった。

トラックランナーにとってのマラソン挑戦
 高岡寿成(カネボウ)は、4月のロンドン・マラソンでポール・テルガト(ケニア)が2位(2時間08分15秒)となったことを、残念がっていた。
「僕ら(トラックランナー)にとって、テルガトは別格です。初マラソンでも、次元の違う走りを見せてくれると思っていました。ちょっとがっかりです」
 テルガトは1万m26分27秒85(97年当時世界新、現在歴代2位)、五輪2大会連続銀メダル。記録も五輪も上にいたのはゲブルセラシエ(エチオピア)だけ。
 そのテルガトは、10月のシカゴでも2時間8分台で2位に。フィニッシュ直前で、ラビットの選手に競り負けてしまった。あそこは意地でも勝たないといけなかった――というのが、高岡の本心ではなかったか。
 マラソンを決して甘く見ているわけではないし、自分の大きな動き(フォーム)がマラソンよりもトラック向きであることは、以前から指摘されていた。それでも高岡は、初マラソンのスタートラインに敢然と立った。

前半は、楽で仕方なかった
 ラビットに先導されて、25kmは1時間15分32秒の通過した。予想通り5km毎を15分ペースだが、道路上では20℃近くと気温が予想外に暑かった。
「前半はすごく余裕がありました。ペースメーカーのつくる流れに乗っていくだけ。展開や駆け引きを気にする必要がないんです。精神的には楽でした。
 距離が減っていくのは速かったですよ。前半は5kmずつが速くて“もう給水か”と思いましたから」
 高岡が前半、楽で仕方がなかったのは、トラックで体得した最大スピードとの差が大きかったこと、そして、俗に言うところの“軽い”状態でレースに臨んだからではなかったか。
 マラソンではある程度“重い”状態で走り始め、走っている最中に軽くなるのが良いとされている。だが、高速ペースのときには、軽めの仕上がりがいいという意見もある。当然、個人差もあることだろう。高岡は、「僕は“軽さ”ですね」と言う。
「レース前々日に福岡入りして、その日と昨日は大濠公園でジョッグをしました。その段階でチェックするのはリズムです。何分とか、何メートル走るとかではなく、自分の感覚を大事にする。そのジョッグで“レースを迎える準備ができたな”と感じました。
 微妙にトラックとは違う部分もありました。“トラックならいける感覚だけど、マラソンはどうかな”と思いましたが、確かに、“軽さ”はありました。トラックで日本新を出したときの“軽さ”とは違うのですが…」
 レースが動いたのは、25kmだった。ラビットが引っ張らなくなり、代わりにラバン・カギカ(NKK)が26km過ぎから集団を抜け出した。だが、カギカを誰も追わなかった。
「あのまま15分ペースで行って欲しかったですね。20km、25kmと全然、しんどくなかったですから。30kmでは“これで(目標としていた1km3分ペースから)1分遅れたー”と思いました。あそこでアベラが追ってくれていたら、自分も行っていました。自分から勝負をするのには早かったですね。追いかけて、1人になるのが心配でしたから。相手がアベラでも1回は勝負をかけてみたかったんですけど、40kmを考えていました」

※この続きは12月14日発売の陸上競技マガジン2002年1月号をご購読ください。

この続きの内容は以下の通り。
これがマラソンの苦しさか
マラソンランナーへの変貌の証
スピードランナーがハマった“落とし穴”
ピッチ走法のまま1万mで自己新を