THE Running2000
勝利のシナリオ 高橋尚子
脚本・小出義雄、主演・高橋尚子
物語は金メダルでは終わらない
アスリートたちはよく、試合を、自分を表現する舞台に例える。だとすれば、高橋尚子(積水化学)は類い希な才能を持った役者といえるだろう。
<20km地点、先頭集団が割れ始める。高橋を含めた3人が競り合っている。30km地点になると1人が脱落し、2人だけの競り合い。相手はケニアのロルーペだ。競り合いは35kmまで続く。不思議に高橋の力は衰えない。そしてマラソンゲートをくぐる>
小出義雄監督はレース1週間前に発行した自著の中で、こう記している。言うなれば、これがシナリオだ。レースは、このシナリオを高橋が演じた結果だった。
18km地点。アンザックパレードの折り返し点を過ぎて間もなくだった。シナリオ通りに高橋が集団から前に出る。予測していたかのように市橋有里(住友VISA・AC)がそれにつく。山口衛里(天満屋)はつけない。自重しているのか、それとも5km過ぎの給水で転倒したことが響いているのか。
だが、高橋のペースアップは、3月の名古屋国際の21kmで見せた爆発的なスパートに比べれば、やや控えめだった。市橋の他にもL・シモン(ルーマニア)、K・チャンオク(北朝鮮)、E・ワンジロ(ケニア)らが追走して集団は8人。間もなく5人となり、20kmを過ぎると高橋、市橋、シモンの3人に。市橋はいつものように無表情で、シモンもいつものようにうつむき加減の姿勢だ。高橋はサングラスをかけているため、表情はわかりにくい。
レースはしばらくそのまま進んだ。変化が現れたのは27km手前、アンザック橋への上り坂だった。表情こそ変化はないが市橋が遅れ始めた。選手名こそ出してないが、これも小出監督のシナリオ通り。30km地点では先頭の2人から43秒と、一気にその差が開いた。山口は先頭から2分以上の差で15位。入賞も苦しい位置だ。
レースは高橋とシモンの一騎打ちとなった。高橋の左側にシモン。高橋が半歩から1歩、つねにリードしている。この2人、練習拠点がともに米国ボルダーということ以外は、まったく対照的だ。
高橋の初マラソンが24歳だったのに対し、シモンは16歳。高橋がマラソン5回目で海外でのレースは2回目なのに対し、シモンはマラソン25回目で世界選手権3回、オリンピックも2度目という歴戦の古強者(年齢は高橋が1歳上)。高橋は国際大会で競り合った経験が皆無なのに対し、シモンは世界的にも終盤の競り合いに強いという定評がある。つまり、表面的には、中盤でシモンを振り切れなかった高橋に不利な状況と言ってよかった。
しかし、これも高橋・小出師弟のシナリオのうちだった。師弟は32km地点に宿舎を確保し、37kmまでの5kmをシドニー入り後、毎日のように走った。そこでスパートすることを想定していたのだ。35km手前で高橋はサングラスを沿道に向かって投げ捨てた。スパートするときは外してしろと、小出監督から言われていたからだ。
「その前から外そうと思っていたんですが、サングラスを拾ってもらおうと思っていた監督がなかなか見つからなかったんです。それで、父が応援してくれていた35km手前で投げ捨てたら、たまたまシモンさんがちょっと遅れたので、“今だ”と思ってスパートしました」
40kmでは20秒以上の差となったが、そこから高橋が苦しくなった。名古屋では最後の2.195kmを7分21秒でカバーしたのに、シドニーでは8分近くを要した。最後まで決してあきらめないシモン。その差は徐々につまってくる。「トラック勝負は避けたい」と思っていた高橋にとっては、望ましくない展開だ。
トラックの記録では高橋の方が上だ。だが、3000mや5000mの記録は、その距離を(一定のスピードで)速く走った結果であり、最後の切れを示す数値ではない。現に1月の大阪国際女子マラソンでシモンは、トラックの記録なら数段上の弘山晴美(資生堂)をラスト勝負で下している。そこでの勝敗を決するのは、その時点での余力であり、酸素負債状態での能力の優劣だ。
だが、シナリオ外である“トラック勝負”にはならずに、高橋は逃げ切った。フィニッシュでは8秒差。50m近い差をキープして、高橋は小出監督のシナリオを演じきった。
フィニッシュした高橋は、まず左右を見回した。小出監督の姿を探したのだ――大喝采を浴びながら幕が下り、主演女優がお礼を言うために脚本家を探している。脚本家の最初の言葉は「よくやったな。最後、きつかっただろ」だった。シナリオに狂いが生じそうになった部分、役者が演じ損ねるかもしれなかった部分を口にして、ねぎらいの言葉とした。役者の方は「無事にゴールにたどり着けました。ありがとうございました」と、演じきった報告をする。こうして師弟のシナリオは無事、完結した。
ここまでは“シドニー五輪編”ともいえるものだが、小出監督のシナリオには“高橋尚子編”といえるものがある。小出監督の元に押し掛け入門に近い形で弟子入りした1995年から、それは始まっていたのかもしれない。その前年、大阪学院大4年生の高橋が合宿に参加したときから「日本一になれるよ」と、ほめ続けた。自分は1500mと3000mの選手と思い込んでいた高橋に、マラソンへの適性を示した。欠点と思い込んでいた腕振りを、「いいリズムを生んでいる」と言って安心させた。5000mで出場した97年の世界選手権に向けての高地練習も、マラソンを視野に入れたものだった。初マラソンこそ失敗したが、そこで高橋に適した調整方法を見つけた。
その後、マラソンで2レース連続して日本最高を更新。長い目で見ても順風満帆、シナリオ通りだった。唯一の狂いは、昨年のセビリア世界選手権。「2時間18〜19分台が狙える」(小出監督)仕上がりだったが、最後に左脚の腸徑靱帯を痛め、レース当日の朝に欠場を決めた。「俺が欲張りすぎた」と小出監督は反省する。
その失敗を繰り返さないために採り入れた練習法が、標高3500m地点での超高地トレーニングだった。高橋は高地への適応性が高く、標高1600mのボルダーや、2500mのネダーランドでは、かなり質の高い練習をこなしてしまう。だが、3500mなら、さすがの高橋も練習の質は落ちる。つまり脚への負担は減るが、高地ということで負荷はしっかりかけることができる、そう小出監督は考えたのではないか。さらに、起伏も多いこの超高地トレーニングをこなすことで、シドニーのコースに対し自信を持って臨むことができる。中盤からペースアップするシドニー編のシナリオは、高橋をもってしても自信がなければ実行できないことだった。
高橋のクレバーさは、小出監督を信じ切った点にある。練習法を信じ、小出監督の描くシナリオを信じ切った。“走ることが好き”なだけだった彼女が、金メダルを狙えるまでになったのは、その結果である。
だが、高橋はロボットにはならなかった。師弟は当初、5月にボルダー入りしてオリンピックが終わるまで帰国しない予定だったが、7月の札幌ハーフマラソン出場を急きょ決めた。その時点での走力チェックが目的だったが、これは小出監督の反対を高橋が押し切る形で決めた。また、オリンピック本番のペースアップ地点は、10km、17km、21kmと候補があったが、最終的には高橋が走りながら決めた。「体と相談しながら走り、体からのゴーサインが出たのが18kmでした」。35km手前のスパートも、高橋がシモンの様子を見て決めたことだった。
高橋は最後に、次のシナリオを明かした。演目は“世界最高編”。
「来春の賞金マラソンで、世界最高を狙って頑張りたいと思います。明日の朝から、監督を起こして走ります」