オリンピアン1月号
中澤正仁、高橋尚子を育んだ高校時代の指導
取材:2000年11月6日


 3年生になった高橋尚子たちを前に、中澤正仁は何気なく話していた。
「長距離ブロックは来週から走り込みをする予定になっているよな。じゃあ、今のうちに体をつくっておかないとな」
 練習メニューの指示を出しているわけではない。日常の会話の延長のような、サラッとつぶやくような口調だ。そんな話し方をすることが何回かあった。すると高橋はその日から、補強運動やジョッグを、学校に居残りできる時間ぎりぎりまでやり始めるのだった。
 中澤は現在、「日本大正村」として知られる恵那郡明智町の唯一の高校、県立明智商高の商業の教員をしている。新卒で県立岐阜商高に着任したのは、ちょうど10年前だった。
 メイン練習の内容は中澤が考えた。発育段階を考慮し、無理のない基本的な練習が中心だったという。つまり、ジョッグ中心。だが、練習を行う場所には気を使った。飽きがきては練習が面白くなくなってしまう。かといって、負荷が軽いメニューばかりでも意味がない。そこで、「岐阜城のある金華山をジョッグする」ようなメニューが考案された。だが、そういった主練習以外のメニューは、選手の判断に任されていた。
「“やらされる練習”をしたくなかったんですね。そんな練習で記録を出したって意味がない。そこで、“今月の課題”“今週の課題”とスローガンを掲げました。この大会を目指すには、この時期にこういう練習をしなくちゃいけないと明確に示すのです。そうしておいて、だったら今何をすべきかという点に、選手の意識を向けるようにしました」
 中澤が生徒の自主的な部分を大切にしたのは、自身の学生時代の経験が基になっている。中澤は山梨学大の陸上部2期生。箱根駅伝も2回走っている。卒業後すぐ、商業の先生として県立岐阜商高に着任。そこに3年生になった高橋がいた。まだ、インターハイに出たこともなかったし、その年1月の全国都道府県対抗女子駅伝では2区で区間45位、9人に“ゴボウ抜かれ”されていた。
「先生はいいなあ。箱根走って。強かったんだあ」
「バカっ、そんなんじゃないんだよ」
 今でこそ箱根の強豪校として鳴らしているが、当時の山梨学大はゼロからスタートしたばかりの新興大学。箱根駅伝に出場したこともなく、強い高校生は見向きもしなかった。
「とにかく箱根に出たい一心でした。誰が監督で誰がコーチで、誰が選手なのかわからないくらい、がむしゃらに目標に向かっていました。どん底から這い上がっていくエネルギーがすごかった。“やらされている”感覚では追いついていけなかったのです」
 中澤が3年生になるとき、ケニアからの留学生が2人入学してきた。監督の上田誠仁はそのうちの1人、ジョセフ・オツオリのルームメイトに中澤を指名した。上田は当時を次のように振り返る。
「オツオリがものすごく早起きをして走るんで困ります、と中澤君が言ってきたんです。そうか、それならオマエも早く起きろ、と言ってやりました。彼には面倒見がいいところがありましたしね。そうやってチームがまとまっていきました」
 当時、上田は20歳代後半。選手たちと年齢差も小さく、箱根駅伝出場という目的に邁進する一体感があった。「僕も普通にやっていたら箱根に出られないと、方程式通りではなく、枠を破ろうと模索していた時期。その時期の選手とは、教え子というより仲間意識が強かったと思います」
 10年前、新卒教員だった中澤と高橋にも、同様のことが言えたかもしれない。「やらされる練習の打破」が、中澤が目指したもの。また、商業高校の生徒にはどこかしら、「どうせ私は」とあきらめている部分があったが、そういった既成の考え方を破りたい。中澤は常々そう考えていた。
「インターハイの東海大会で、高橋に『6番(全国大会への出場権)なんか狙って走るなよ』と言ったら、最初からガンガン飛ばしている。僕の言ったことをわかってるな、って思いましたよ」
 レースや練習においてだけでなく、日常生活の中でも競技への基本的な姿勢や考え方が、改まっていくのが感じられた。素直で一生懸命。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」。上田がよく話してくれた言葉を、中澤も高橋に話して聞かせた。中距離では県でも一二を争う選手だったが、駅伝など長距離では結果を出せないでいた高橋。中澤の言葉を素直に受け入れ、結果がすぐに出なくても地道な努力を重ねた。
 そんな高橋を見て、中澤はごく自然に「日の丸を胸につけて走る選手を目指そう」と言って大学に送り出した。大阪学院大では、休日にも自主的に走っていた。地図を買い、走ったコースを塗りつぶしていく。楽しみながらのトレーニング。
「勝利至上主義の大学でなかったのが、高橋にはよかったのかもしれません」
 ゆとりのある練習でも、高橋の競技への意識は高まっていった。日本インカレで1500m2位、3000m3位と学生トップクラスに成長。
 就職について相談を受けた中澤は、高橋を駅伝の3〜4km区間にと考えているチームより、「マラソンだ」と言ってくれる小出義雄が監督を務めるチームをを薦めた。小出は千葉県佐倉高の教員時代に1年間ほど、臨時で順大の指導をしていた時期があった。その時の教え子の1人が上田だったのだ。合宿などで山梨学大と小出(当時市船橋高)が一緒になることもあり、中澤は小出の考え方や、面倒見のいい人柄も知っていた。
 その際、中澤の周囲からもずいぶん反対意見が出たという。“中距離の高橋”のイメージは、岐阜県の関係者の間でも根強かった。ここでも中澤が考えたのは“殻を破る”こと。
「あのスピードでマラソンをやったら、夢があるじゃないですか」
 小出―上田―中澤。この師弟ラインに共通していえるのは、常識にとらわれない考え方をする点だろう。30km以降の驚異的なペースアップで日本最高を出した98年名古屋、猛暑の中でスタートから飛ばして日本最高を4分も更新した98年アジア大会、そしてシドニー・オリンピック。高橋がマラソン界でやってきたことは、まさに常識破りの連続だった。


中澤正仁(なかざわ・まさひと)
 1967年11月11日生まれ。中津川商高では1500mと3000mSCでインターハイ岐阜県大会で入賞。山梨学大に進み、箱根駅伝の6区に2度出場。関東インカレ(2部)にも3000mSCで2度決勝進出。1990年から県立岐阜商高の商業科教員。1996年からは現在の明智商高に。駅伝で全国大会出場はまだないが、つねに県内で上位を争うチームに仕上げている。また、長距離以外でも全国大会入賞者を育てている。全国都道府県対抗女子駅伝岐阜県チームコーチ。