オリンピアン2001年1月号
藤田敦史の成長は、貧血との戦いでもあった
取材:2000年10月〜12月3日
マラソン練習はただやみくもに走り込めばいい、というほど単純なものではない。それを改めて証明したのが藤田敦史である。
藤田は12月3日の福岡国際マラソンで犬伏孝行が99年に出した日本最高記録を更新、2時間06分51秒で日本選手としては9年ぶりに優勝を飾った。シドニー五輪金メダリストのG・アベラを破る快挙だった。その際に大きく報道されたのが練習量の多さ。8月1300km、9月930km、10月1200km、11月1000kmの走行距離は、マラソン選手の中でも屈指の量だ。
藤田の競技歴をひもとくと、“貧血との戦い”の歴史でもあることがわかる。高校は駅伝の新興高で、3年時には県大会優勝(=全国大会出場)を目指し気合いが入っていたが、貧血で藤田の走りは精彩を欠いた。
藤田が大学4年時、駒大は箱根駅伝初優勝の好機だった。藤田はその前年に「箱根駅伝2区の区間賞でチームの総合優勝に貢献する」「卒業前に初マラソンで学生最高を更新する」という目標を立て、4年時にはより精力的に練習に取り組んでいた。
だが、またもや貧血。箱根駅伝は自ら志願してエース区間の2区から4区に回る。藤田は区間新でトップに立ったが、順大の予想以上の快走の前にチームは2位。しかし、その悔しさをバネにして、3月のびわ湖マラソンで学生最高、日本人トップの2位となって世界選手権代表に決まった。
箱根駅伝前後から快方に向かった貧血が、世界選手権前に再発。脚の故障も重なって満足に走り込めなかったものの、本番では持ち前の粘りを発揮して6位入賞。シドニー五輪代表の有力候補だったが、選考レースだった2000年3月びわ湖マラソンを、脚の故障のため棄権を余儀なくされた。
福岡に向けて練習を質的にも量的にも、一段高めた藤田。マッサージなどの治療とともに、栄養面に気を使った。練習直後にタンパク質を摂ったり、鉄分補給のサプリメントを使用。「あれだけ悩まされた貧血が改善された」と言う。
その結果、(負荷の大きい)ポイント練習の強度が上がったにもかかわらず、翌日の疲れ具合が軽減された。マラソン練習は走り込むことが大前提だが、疲れが蓄積していったら故障につながったり、レース本番の早い段階で疲労が出てしまうことになる。疲れを取りながら走り込むことが必要なのだ。
シドニー五輪で結果を出せなかった日本男子マラソン。かといってむやみに走り込めば、貧血や故障など“両刃の剣”的な危険がある。それを克服していくことができれば、世界でも通用することを藤田が証明して見せた。
<プロフィール>
ふじた・あつし◎1976年11月6日生まれ、福島県出身。166cm、52kg。富士通所属。中学ではテニス部、清陵情報高から陸上競技を始めるが、全国大会には出場していない。駒澤大入学後、大八木弘明コーチの指導で急激に力を伸ばし、日本インカのハーフマラソンを3年、4年時に連覇。箱根駅伝は1年から出場し1区2位、2区7位、2区2位、4区1位。チームのエースととして4年時の全日本大学駅伝優勝、箱根駅伝2位に貢献。駒大卒業直前の99年3月、びわ湖マラソンで2時間10分07秒と、瀬古利彦の持っていた道路学生最高を20年ぶりに更新。富士通入社後の同年8月の世界選手権セビリア大会では6位入賞。2000年元旦の全日本実業団駅伝でもアンカーを務め、富士通初優勝に貢献。1万mのベストは28分19秒94