陸上競技マガジン2014年8月号
Challenge of six years.
谷川 聡
110mH日本記録保持者
追求し、感性を磨き、作り上げた動き

“探究心”が行動の源
 アテネ五輪で13秒39の日本新を出したとき、谷川聡は32歳と若くなかった。その6年前は大学院3年目の26歳で、海外に自費で留学したシーズン。旺盛だった探究心が高じた末の行動だったが、留学から新たな探究心がわき、次のステップへと自身を高めるきっかけになった。谷川の競技生活で一貫していたのが、他人への“探究心”だったのである。
 高校時代はそれほどトレーニングをしなかったこともあり、全国大会に出ていない。トラック&フィールドのトップ選手としては珍しいケースである。中大へも一浪後に入学。宿泊を伴う初の遠征試合が大学4年時の愛知国体だったというから驚きである。しかし3年時に、自己記録を前年から0.7秒も短縮。日本インカレ3位に入り、トップハードラーとしてのスタートラインにやっと立つことができた。
 当時から、自分よりも上の選手が何をしているかに、強く興味を持っていた。大学2年時に、100 m前日本記録保持者の井上悟(ゴールドウイン)や、走幅跳日本記録保持者の森長正樹(同)らが練習しているケアステーションに行き、リハビリをしながら一緒にトレーニングさせてもらったという。
 こうした行動力を弱い頃から持っている選手だった。中大でも強い選手のマッサージ役を買って出て、筋肉の付き方などを我流で分類していた。
 多くの選手を見ているうちに研究対象としたくなり、筑波大大学院に進学した。
「人を観察することの面白さ、(強さの理由を)知りたい欲求、そして一生懸命にやるとはどういうことなのか。一般の就職活動もしていましたが、体育の大学院があることを知り、『これは面白い!』と思って筑波大の大学院に進みました」
初海外遠征の翌月に米国留学
 大学院2年目のシチリア・ユニバーシアードが初の海外遠征だった。これも普通では考えられない遅さだが、輪をかけて驚かされるのが、帰国翌月の97年9月に米国に留学したこと。初の海外遠征に行く前から留学を決断し、準備していたのである。
 80〜90年代の五輪&世界陸上全レースの映像を繰り返し見て、世界でどんなトレーニングが行われているかを、自分の目で確かめたい気持ちに抗えなかった。
 最初の留学先はインディアナ州で、スポーツの名門ノートルダム大のコーチに師事した。13秒5台で全米学生3位のジャマイカ人選手や、女子100 mHで12秒5台のカナダ人選手が在籍していたチーム。室内設備の充実ぶり(300mトラック)や、ウエイトトレーニング専門のコーチがいることに驚かされた。
「アメリカで基本的にやっていることを学ぶことはできましたが、技術的なことは、英語の理解が高くなると、『これは違うかもしれない』と思うようになりました。室内トラックのサーフェイスが硬く、日本の屋外で行う環境のトレーニング負荷と違っていました」
 “違う”というのは自分に合わない、という意味で、詳しくは後述するが、谷川が提唱する“感性を磨く”という点で重要な要素となる。
Turning Point
目指す動きは“シャッフル”
 翌98年2月には練習拠点をロサンゼルスに移した。師事したのはイギリス人コーチで、若き日のフェリックス・サンチェス(ドミニカ共和国。400 mHで五輪金メダル2個)らと一緒に練習した。
 そこで自身に合った技術だと確信したのが“シャッフル”と言われている動きである。76年モントリオール五輪金メダリストで、白人のギー・ドルー(フランス)が代表的な選手。インターバルを細かく刻み、ハードルを超えていく動画がある。その脚さばきと体全体の使い方が軽快で、リズミカルなのだ(カードをシャッフルするのに例えられたと思われる)。

この続きは陸上競技マガジン 2014年 8月号でご覧ください。
●最初の日本新とオーストラリア選手
●劉翔の模倣で着地重視に
●目的を果たせなかったアテネ五輪
●感性を磨くということ

と続きます


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