陸上競技マガジン2014年5月号
Challenge of six years.すべてを懸けた6年間
井村久美子
遠くへ跳ぶために、心のままに

●2006年の快進撃
 井村久美子のピークは間違いなく2006年だ(当時は池田姓)。その点は記録的なパフォーマンスにおいても、国際大会の成績を見ても、そして本人の感覚も一致している。
 表を見れば2006年の井村の強さがわかる。日本記録の6m86を筆頭に6m70以上を7試合で跳んだ。スーパー陸上の6m81は向かい風である。アジア大会でも6m81で金メダルを取った。後述するようにメンタル面の問題はあるが、2006年に世界選手権かオリンピックがあれば、間違いなく入賞していただろう。
「助走が、頑張らなくても走れたシーズンでした。福島大の川本先生(※)からは『100mに転向しよう』と言われたくらいです。『嫌です。私は走幅跳のために速く走ろうとしているだけですから』と拒否しました(笑)」
※川本和久監督。短距離、ハードルの日本記録保持者、代表選手を多数育成
 速く走れば遠くに跳べる。これは井村が父・実さん(故人)から指導を受け、天才少女と呼ばれた小学生、中学生時代から一貫していることだった。
●世界を意識し自己変革
 6年前の2000年に、チリで開催された世界ジュニア選手権がターニングポイントとなった。
 井村は1995年に6m19と、今も残る中学記録を跳んだが、高校1年時と大学1年時に「バーンアウト」に近い状態に陥った。高2から3年連続6m10以上をマークしてはいたが、中学時代の記録を4年間破れなかった。
 幸運だったのは早生まれで、大学2年時もジュニア資格があったこと。世界ジュニアの標準記録は6m10台。大学1年時の秋に復調の兆しが見えたことも、井村の気持ちを後押しした。
「頭だけで意識するのは苦手だったので、やるべきことを紙に書き出して、部屋のいたるところに貼りました」
 そのうちの1つが、体重を落とすことだった。井村は競技に対し、自然とストイックになれる選手ではなかった。高校1年時は甘いものを食べることでストレスを発散させていた。大学1年時も「チョコレートは毒だ」と思い込んだり「このお菓子を我慢すれば何cm記録が伸びる」と自身に言い聞かせる必要があった。
 体重コントロールには、世界ジュニアを目標として強く意識することで成功した。それと並行して、前年から走りの改良も上手く進んだ。短距離・ハードルの日本記録保持者を何人も育てていた川本監督の教えを、理解できるようになったのだ。
「当初は福島大の厳しい練習から逃げていましたが、そんな自分を変えないと強くなれないと思ったんです。川本先生の目に付きやすい位置で走って、アドバイスをもらえる回数を多くしました。(アテネ五輪4×400mR4位の)佐藤光浩さんからもアドバイスをしてもらって、骨盤の前側の腹筋から脚を動かすことや、腕振りと接地を全てシンクロさせて、体の軸を一直線に作るイメージを持つことができました」
●Turning Point スタイル変更で“型”が完成
 そして2000年のシーズン直前に、跳躍スタイルを反り跳び(かがみ跳び)からシザースに変更した。
「男子の日本記録保持者の森長(正樹)さんからもらったアドバイスと、速く走れるようになったこと、そして最後に川本先生の

この続きは陸上競技マガジン 2014年 05月号 でご覧ください。
●“何のために”を突き詰め続ける
●戻らなかった06年の走り
●メンタルトレーニングの重要性
●“心の原点”を作る

と続きます


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