陸上競技マガジン2014年10月号
Challenge of six years.
醍醐直幸
走高跳日本記録保持者
自ら道を切り拓き、苦難を乗り越えつかんだ栄光

2006年の日本記録ではなく2007年の2m30がピーク
 醍醐直幸が自身のピーク(最高の跳躍)と振り返ったのは、日本記録の2m33を跳んだ06年日本選手権ではなく、2m30をクリアした07年5月の大阪GPだった。
「06年は体力的なピークと言えたかもしれませんが、記録を出そうとして出したというよりも、試合になれば結果が出た、という時期でした。練習もできていたので"条件が合えば出るぞ"という感覚はありましたが、調整が上手くできたから、という計画性の高いものはなかったですね。前年にヘルシンキ世界選手権に出て自信を持ち始め、気持ちと体力が上手く噛み合った、とは言えると思います」
 謙遜気味に話すが醍醐の2m33は、君野貴弘(ゴールドウイン)の2m32を実に13年ぶりに更新する日本記録であり、その年の世界リスト5位タイだった。世界1位が2m37で、2〜4位の3人が2m34。翌年、大阪で開催される世界選手権での活躍が期待される選手として、一躍注目されるようになった。
「07年は大阪でメダルを取ろうと本気で思っていました。練習でも何をやるべきかわかっていて、自分に限界を作らず、一番充実した冬期を過ごすことができた。まずは大阪GPに第一ピークを持ってきて、という狙い通りに調整ができたのです。"記録を出したぞ"という手応えは07年の方がありましたね」
 残念ながら、次の試合の東日本実業団でケガをしてしまったこともあり、世界選手権は予選落ちに終わったが、日本の走高跳が世界に大きく近づいた時期だった。
 大学で低迷していたことを考えれば、07年までの醍醐の6年間の取り組みは、日本の走高跳界にとって極めて大きな成功例と言えるだろう。
迷宮をさまよっていた6年前
 6年前の2001年は東海大の3年生で、醍醐は出口の見えない迷宮をさまよっていた。
 高校2年時に2m19を跳び、3年時は世界ジュニアで7位に入賞した。東海大に進んで1年目は2m21と自己記録を更新し、日本インカレは1年生チャンピオンにもなった。だが、その後は故障がちになり、2年時は2m10がシーズンベストと落ち込んだ。
 トレーニングの方向性にも迷いがあった。
「高校時代は感覚だけで練習をして試合でも跳べてしまったので、自分のなかに"これをやれば"というものを持てずに過ごしてしまいました。大学1年のときもその流れで、新しく取り組んだ跳躍ドリルとも噛み合って跳べたのですが、大学2年で足首やアキレス腱を故障してから踏み切りが狂い始めてしまった。ウエイトトレーニングも始めたのですが、身体の使い方というところを意識しないでやっていたので、走高跳には結びつきませんでした」
 3年時は関東インカレで「たまたまタイミングが合って」2m19を跳んだが、3年時も4年時も2m15を跳ぶのがやっとという状態。練習に対しては"真面目すぎた"選手である。グラウンドには必ず出たが、走高跳のピットに行く頻度が少なくなっていた。
「走る練習や、走高跳とは別の跳躍練習などはしっかりやっていましたが、走高跳のピットには行くのが怖くなっていました。全助走の跳躍練習でも、短助走と同じ高さしか跳べなかった。跳べなくなった自分を見られるのが嫌で、逃げていたのだと思います」
 当時の東海大は短距離に勢いがあった。03年の世界選手権200 m銅メダリストの末續慎吾(ミズノ)が、すでに00年シドニー五輪、01年エドモントン世界選手権と準決勝に進出。学生記録も00年に更新した。
 後に"末續世代"と呼ばれた同学年選手たちの活躍も話題になりつつあった。110mHの内藤真人(法大)と女子砲丸投の森千夏(国士大)は01年に日本新をマーク、女子走幅跳の池田久美子(福島大)もエドモントン世界選手権で決勝に進んだ。醍醐は彼らに対し「コンプレックスもあった」という。
 卒業後も競技を続ける意思は固かったが、学生時代の実績で実業団に入ることは難しかった。末續ら同学年選手たちの実業団入りが次々に決まっていくニュースは、嫌でも耳に入ってきた。
 そんななか、関係者が紹介してくれる会社があり、面接に行ったこともあった。醍醐は練習時間について相談したかったが、フルタイム勤務で仕事をするのが前提で、競技優先の勤務が認められる雰囲気は少しもなかった。

この続きは陸上競技マガジン10月号でご覧ください。Amazon陸上競技マガジン2014年10月号
●再上昇のきっかけは東京高
Turning Point
●武器を使えるようになるまで
●陸連支援制度と世界選手権
●「自分の色」を付けられた富士通
●好調ゆえの落とし穴
●独り立ち
と続きます



寺田的陸上競技WEBトップ