陸上競技マガジン2014年1月号
男子マラソン2時間5分台へ
2時間6分台記録保持者3人が語る

過程と提言

【リード】
 日本マラソン史上初の2時間6分台が出されたのは1999年9月。ベルリンで犬伏孝行が2時間06分57秒で走ったのが歴史を動かした瞬間だった。翌2000年12月には藤田敦史が2時間06分51秒と、国内レース日本人初の6分台を福岡でマークした。2002年10月のシカゴでは高岡寿成が、2時間06分16秒と初の6分台前半に到達した。
 4年間で3回の6分台。2時間5分台も遠くない雰囲気があったが、高岡の日本記録を最後に6分台は11年間も出ていない。夏開催の五輪・世界選手権の入賞は続けているが、記録的には世界との差は開く一方である。それが続けば五輪・世界選手権の入賞も難しくなるのは明らかだ。一刻も早い2時間5分台の実現が望まれている。
 最年少の藤田も13年4月に引退。3人全員が自身の競技生活を振り返ることができる立場となった。どのような取り組みで3人は2時間6分台を出すことができたのか。その過程に2時間5分台へのヒントがあるのではないか。


●異なる成長過程の3人
 2時間6分台を出した3人の経歴、成長過程は面白いほど異なる。
 第1号の犬伏は年齢的に“中堅”となった頃、マラソンで頭角を現した。徳島県の城ノ内高卒業後すぐに、地元の大塚製薬に入社。「特に箱根駅伝は意識していませんでしたし、オリンピックに出たかったので実業団が近道だと思いました」と明快だ。
 入社9年目の1999年9月のベルリンマラソンで2時間06分57秒(2位)と歴史的な快走。それ以前の自己記録は2時間12分20秒だったので、当時の長距離関係者の多くが“青天の霹靂”に近い印象を持った。
 ただ、詳しくは後述するが5000mで、国体成年B(当時存在した高卒2年目までの年齢区分)と全日本実業団に勝っている点に留意する必要はある。
 2人目の藤田は箱根駅伝で注目された駒大時代に大きく成長した。福島県の清陵情報高時代は貧血気味で全国大会に出ていない。実業団からの勧誘もあったが、「走ることを仕事にする自信がなかったんです。大学4年間で自分の可能性に挑戦してから判断しようと思った」という。
 箱根駅伝を目指す過程で20kmの距離が強くなり、3年生になるとハーフマラソンで学生間無敵状態に。マラソンを意識するようになり、練習の距離も増えた。札幌ハーフなどを通して実業団選手に対抗する意欲も生じ、3年時の熊日30km、4年時のびわ湖マラソンと2種目で学生記録を更新した。
 富士通入社1年目のセビリア世界選手権で6位入賞。2年目の福岡国際で2時間06分51秒をマークした。伸び悩みも指摘される箱根駅伝スター選手のなかにあって、卒業後に世界レベルに達した選手である。
 3人目の高岡は龍谷大4年時に5000mで13分20秒43の日本新を出して長距離関係者を驚かせた。京都の強豪洛南高出身。ケガが多くトラックの全国大会に出場できなかったが、3年時の全国高校駅伝4区区間賞を取っている。
「関東の大学の練習ができるとは思えなかった」と、地元の龍谷大に進学。3年時から関西インカレなどのトラックで活躍し始めた。5000m日本記録保持者として山口県の実業団に進み、トラックで94年アジア大会2冠、96年アトランタ五輪代表、98年に5000mで日本記録更新、そして00年シドニー五輪10000m7位入賞と活躍。
 31歳の01年にマラソンに進出し、2レース目の02年シカゴで2時間06分16秒をマークした。当時の世界歴代4位という世界レベルの記録だった。
 高校から実業団に入り6分台の扉を開けた犬伏。箱根駅伝のスターの座に安住せず、実業団2年目で国内唯一の6分台を出した藤田。関東以外の大学で5000mの日本記録を出し、スピードを生かして6分台前半に達した高岡。三者三様の成長過程で日本のマラソンのレベルを押し上げた。


【犬伏のマラソン練習メニューの特徴】
・40km走のタイムは遅め
・スピード練習を40km走の翌日(または近い日)に行う
・ウオーク、ジョグなど地味な練習を継続して行う

 2時間6分台を出せた理由は? と質問すると犬伏は、「3〜4年継続できたからです」と即答した。
「2時間6分で走ったベルリンまで故障なく練習を続けられていましたし、ボストン、東京とハイペースのマラソンも経験できましたから」
 犬伏のメニューは1つ1つを見れば、「実業団選手なら誰でもできる」(犬伏)レベル。ベルリン前に行った40km走は2時間17〜27分で、冬場でも1〜2分速くなる程度。
「距離走のタイムにはまったくこだわらなかったですね。40km走はマラソンを走る時間、体を動かすことに慣れれば良い、と考えていました」

中略

【藤田のマラソン練習メニューの特徴】
・40km走など距離走のタイムがレースに近い
・追い込んだ距離走後は次のポイント練習まで間隔を開ける
・ジョグも多い(練習で走る総距離が多い)

 藤田の練習の特徴は走り込む量の多さと、距離走をレベルの高いタイムで行うこと。「叩く練習」という言葉を藤田は使う。
 福岡国際で2時間06分51秒を出した2000年は、8月の月間走行距離は1300kmだった。8月中旬から9月中旬の1カ月間なら1400kmを超えたという。高岡のように毎月スピードを戻すことはしないが、一度トラックレースを入れる9月は1000km程度。10月は1200kmだった。
 40km走は2時間12分〜15分で行い、1カ月前に行う最後の1本は2時間5分台。そこから本番に向けて30km(1時間31分07秒)、20km(60分08秒)とレースに近いペースで行い、5日前に10km(29分16秒)を行う。最後の1カ月の距離は1000km程度だ。
「8月や10月は鈍い光り方です。11月になると研ぎ澄ませて、切れる走りができるようにしていきます」

中略

【高岡のマラソン練習メニューの特徴】
・40km走を速いペースで行うのは1本だけ
・マラソン練習期間中に速いスピードの練習やレースをはさむ
・レースを多く利用する

 高岡の練習の特徴は、持ち味であるスピードの感覚を持ち続けることを意識していた点だろう。
 40km走は2時間20分が基本で、レースに近いタイムは5週間前の1本だけ。2時間06分16秒を出した02年は、2時間10分19秒で行っている。
 40km走や120分間走は毎週のように行っているが、間に短い距離のインターバルなどを必ず入れている。その理由を「ストレス解消です」とは高岡だから言える台詞だが、それも重要なことだったのだろう。02年シカゴの3週間前には、トラックレース用の準備はまったくしないで5000mを13分43秒7で走った。
「マラソンで目指したのは1kmを3分00秒で走りきることですが、5000mの準備をしなくても13分40秒で走る感覚が身につけられたことで、マラソンで“ためる感覚”を持てるようになりました」
 だが高岡は、スピードよりも「ゆとりをもった練習」をした点を、6分台を出すことができた一番の要因に挙げた。マラソン2回目だった02年シカゴ前は、3カ月のマラソン練習の前半は40km走ができなかった。120分間走などで代用していたのである。
 当時「40km走の本数は?」と質問すると「どこまで数えたらいいですかね?」と答えに困っていたことを思い出す。無理に追い込むことよりも、次につなげることを優先した。このあたりの考え方は犬伏と同じだろう。

後略


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