箱根駅伝歴史シリーズ第2巻 伝説の継承者たち
1999年セビリア世界選手権銅メダル
佐藤信之
メダルへの執着心

佐藤信之は決して、世代のトップを走ってきたランナーではなかった。箱根駅伝でエース区間の2区を走ったのは一度だけ。故障に悩まされた時期も長い。セビリア世界選手権でメダルを取ることができたのは、実業団でスタミナもスピードも突き詰めたからだ。そのために学生時代に何をしていたのか。

――世界大会と箱根駅伝では、雰囲気が違いますか。
佐藤 セビリアの競技場に戻ってきたときの大歓声は今でも忘れられません。まるで地響きです。地元スペインのアントンが30秒前を走っていましたから、彼への歓声だというのはわかりました。でも、本当にすごかった。地面が浮いてくるような気がして、なんともいえない感覚に酔ったことを覚えています。あれこそが最高でした。箱根駅伝の沿道の歓声もすごいですよ。でも、世界と箱根は違いました。箱根の雰囲気が素晴らしいのは確かですが、そこで満足してしまう感覚は僕には理解できません。
――そう感じられたのは、世界を目指す意識が強かったから?
佐藤 僕は中学で陸上競技を始めたときから世界を目標にしていました。陸上をやるからには世界でメダルを取りたい。取れないと思ったら、その時点で陸上をやめる。そのくらいの覚悟で高校も大学も取り組んでいました。だからといって、箱根を目指すことに意味がないとは思いません。僕も学生時代は箱根を目指していた1人。そこに1年のピークを合わせることが一番の目標でした。その過程で学んだこともメダルにつながったと思います。
――中大入学時には、何を目標としていましたか。
佐藤 将来マラソンで2時間6分を出すための準備期間として、ハーフマラソンを1時間3分30秒の走力を付けることです。そのためにトラックでも5000mの13分台、1万mの28分台も最低限クリアしたいと思っていました。今のレベルからすると、「なにそれ」と言われそうですけど。
――どんな練習を始めましたか。
佐藤 高校まではインターバル中心の練習でしたが、大学に入ったら長い距離を走らないと箱根駅伝は走れない。3月の時点でそう碓井さんから言われていました(当時、本田技研の碓井哲雄監督がコーチを務めていた)。長い距離を走れる力をつけることが、5000mや1万mにもつながると。メニューは距離走とLSD(ロングジョグ)が中心。“距離のベース”をつくってから、スピード練習を入れていました。
――1年時の箱根駅伝は1区で区間2位でした。
佐藤 初めての20kmで、どう持っていったら走れるのかよくわかっていない時期でした。ただ、箱根をクリアしないと世界とか言っていられないので、1年目から出て当たり前、という意識ではいました。中大は伝統校で優勝を目標に掲げていましたから、それに貢献しようと。区間賞の武井(隆次・早大2年)さんは前年のユニバーシアード1万mで28分17秒02の銀メダルの選手。自分もトラックの記録を伸ばして箱根で勝負したいと思いました。
――2年時にはエースに成長して箱根駅伝は2区を走りました。
佐藤 1時間09分31秒で区間3位でした。レベルが低いですよね。1年生の康幸(早大。渡辺康幸現早大監督)が1時間08分48秒で区間2位。最後の3kmの上りで1分違いました。康幸はエスビー食品のメニューで(当時の早大はエスビー食品瀬古監督が駅伝監督)、1戦1戦勝つイメージでやっていたと思うんです。自分はまだ、「入賞でいいか」というレベルの考えでした。勝つためのトレーニングができていなっかと思います。
――渡辺監督とのエピソードは多くあるようですね。
佐藤 3月に実業団と学連が合同でヨーロッパに遠征しました。最初にポルトガルのハーフマラソンに出場して、
※上記で全体の1/5くらい。この続きは箱根駅伝歴史シリーズ全3巻 【第2巻伝統の継承者たちでご覧ください。


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