2002/2/3 別大マラソン
3位・島嵜は“山下り男”のイメージを払拭

 日本人トップの3位には島嵜貴之(ヤクルト)が2時間13分49秒で入った。風の影響がなければ昨秋の北京で出した自己記録、2時間11分01秒の更新も可能だったのでは、と思わせる走りだった。

 島嵜の2時間15分未満のレースは以下の通り(本人に確認していないので、もしかすると漏れがあるかもしれません)。

1994福岡  14位  2時間14分51秒
1998別大  3位  2時間12分46秒
2001びわ湖 10位  2時間13分16秒
2001北京  10位  2時間11分01秒
2002別大  3位  2時間13分49秒


 ここ3レースの安定ぶりと、今回日本人トップでテレビに長時間映し出されたことで(そして、大学を卒業して丸10年が経ったことで)、箱根駅伝の山下り男のイメージは払拭されたような気がする。

 箱根駅伝の人気のすさまじさは、改めて説明するまでもない。箱根で活躍した選手、あるいは大ブレーキを起こした選手(それがテレビで大きく取り上げられた場合)は、その時のイメージが一般世間には強烈に印象づけられてしまう。そのイメージを打ち破るのは容易ではない。
 谷口浩美(日体大→旭化成)のように山下りの6区で3年連続区間賞でチームの優勝1回&2位2回に貢献しても、その後の活躍が著しければ、箱根よりもその後のマラソンのイメージが強くなる。地元東京の世界選手権金メダル、さらにオリンピック入賞(しかも『こけちゃいました』の名ぜりふ)をしていれば、どんなメディアでも谷口を話題にするとき、箱根駅伝を持ち出すことは少ない。
 2区で驚異的な区間新をマークした瀬古利彦(早大→日体大)しかり。当時の2区は24.4kmと現在と距離は違うが、3〜4年時と区間2位に3分以上の差をつけた走力は他を圧していた。にもかかわらず、瀬古のイメージといえば、大学3年時から3年連続で優勝した福岡国際マラソンだった。
 近年では藤田敦史(駒大→富士通)が卒業後3年で早くも、“マラソンの藤田”のイメージを確立した。

 その点、渡辺康幸(早大→エスビー食品)の場合はどうだろうか。学生時代に世界選手権1万mの決勝で12位となり、瀬古の学生記録を17年ぶりに更新した。さらには、アトランタ五輪代表にもなった。それでも、世間では“箱根の渡辺”の印象の方が強いような気がする。
 三代直樹(順大→富士通)もしかり。卒業後に1万mで27分台を出し、昨年はエドモントン世界選手権にも出場したのだが、いまだに3年前の箱根2区(渡辺の区間記録更新&チームを優勝に導いたこと)の方が、世間一般では記憶に残っているのではないか。
 トラック選手よりマラソン選手の方が、テレビ中継がある分、箱根のイメージ払拭には有利なのは確かだが。

 大学を卒業して実業団で長距離を続けるからには、世界を目標にしたり、あるいは日本のトップレベルで走りたい、というのが選手の本音であるはず。いつまでも「山下りの誰々」とか「○○大の●区の誰々か」と言われるのは、箱根駅伝の異常な人気と一部メディアの報道に原因があるとはいえ、本意ではないはず。箱根駅伝の4年間に費やした何倍ものエネルギーを、その後の競技人生で費やしているはずなのだから。それも、走ることで給料をもらって…。
 島嵜もそんな選手の1人だったと思う。大東大時代に3年連続で6区で区間1位・2位・2位。チームの2連覇に貢献したことで、「山下りの島嵜」のイメージと箱根駅伝中継時に紹介された「秩父の小天狗」のニックネームは、島嵜に付いて回った(この記事を書くために戦績を調べ直すまで、島嵜が3・4年時と区間2位だったとは知らなかった)。
 今回の快走は、そのイメージを払拭した。「マラソンの島嵜」の活躍は、これからだと思うのだが、新聞報道によれば「2時間10分を切って引退したい」とか。「引退したい」という表現になってしまっているが、「年齢が32なので、早いうちに2時間10分を切りたい」という意味だろう。