2001/5/25 東アジア大会3日目
吉田真希子が女子400 mH57秒33の日本新!! 前編
6年前の地元・福島国体が競技人生のエポックに
レース前にあった川本・吉田師弟を象徴する出来事とは?
競技人生の分岐点というものを、明確に意識できる選手はどれだけいるだろうか。「あの時の、あのレースがあったから」「あのときの、あのひと言があったから」「試合や練習でこんな感覚があったから」――1つの明確なエピソードがその後の競技人生を、あるいは人生そのものを変えた経験が……。
吉田真希子(福島大TC)は、それをきっぱり言うことができる。
「福島国体がなかったら、今日の日本新はなかったです。あの転倒がなかったら」
1995年10月の福島国体。成年共通女子400 mHは大会最初の種目だった。それだけ、地元選手への期待も大きかった。福島大1年生の吉田は第2組に登場した――。
それから5年7カ月。長居陸上競技場の第3レーンを吉田は走っていた。
3台目までインターバルの歩数は16歩。
「いつも浮いてしまうんですが、今日はそこがきっちりできました。逆脚がうまくいきましたね。減速しませんでした」
4台目に17歩に切り換える。
「切り換えたときにつまってしまいました。それで、第3コーナーからの加速が今ひとつでした」
この種目の出場者は4人しかいない。外国3選手の昨年のベスト記録は55秒83、56秒00、56秒4で、57秒92の吉田よりもワンランク上だ。そして、前半を15歩ではなく16歩で行くこともあり、置いていかれるのは仕方のないこと。だが、後半はそうとばかりも言っていられない。吉田の目標は56秒台、56秒80の世界選手権B標準なのだ。
福島大の川本和久監督は、8台目の水壕あたりに陣取っていた。
「レース前には、6台目から走ってみよう(切り換えて追い上げること)と言っていました。日本選手が相手なら7台目、あるいは8台目からでもいいんですが、外国選手が相手ですから、つぶれてもいいから6台目から行ってみようと」
終盤、吉田は56秒00(2000年)の宋英蘭(中国)を追い上げたが、0.39秒、距離にして2mほど及ばなかった。
「あそこは差し切らないといけないでしょう。バカヤロー吉田、ですよ」
師は、不肖の弟子を記者たちの前で嘆いたが(師弟の太い信頼関係を証明する台詞でもある)、弟子は日本記録を0.01秒更新していた。
話を95年の福島国体に戻そう。
成年共通女子400 mHを最初の種目にと県側に推したのは、他ならぬ川本監督だった。吉田の快走を期待できたからこそだ。そして実際、8台目まで佐々木美佳(98年に57秒34の日本新)を抑える快走を見せていた。だが、8台目をひっかけて転倒してしまった。
吉田が400 mHに本格的に取り組んだのは、地元の福島国体に出たい一心からだった。安積中では800 mで全日中6位、安積女高では400 mと800 mでインターハイ準決勝進出。競技歴に400 mHが加わってきたのは、高校3年の94年に1分01秒37を記録したときからだ。
当初は800 mで国体出場を目指していたが、選考会で敗退。やむなく400 mHで挑むことになった。だが、その専門外の種目で「北海道などですごい練習をして」(川本監督)、前述のように期待がもてる状態にまで力をつけた。
ところが、地元観衆と関係者の目の前で転倒。その時に師弟は「日本記録を作るまで、400 mHをやめられない」と話し合ったという。
川本監督は現在、日本陸連の女子短距離部長を務めていることからもわかるように、短距離が専門。筑波大時代は400 mで鳴らした選手だ。
「800 mを教える川本より、400 mHを教える川本の方がいいと判断しました。吉田を400 mHに引きずり込んだわけです」
しかし、800 mをやめたわけではない。それどころか、99年の世界室内選手権(前橋)、2000年のアジア選手権と800 mで日の丸をつけている。400 mHでは昨年、日本選手権に優勝し、記録も57秒92(日本歴代5位タイ)まで伸ばした。
この2種目だけでなく、4×100 mRで福島大が46秒11をマークしたときの4走を務め、全日本大学女子駅伝にも3回出場(最高順位は区間8位)している。
「ベースとなるトレーニングや動きが同じなんです」と、川本監督。
後編
その師弟が4月末〜5月頭の静岡合宿で、ひらめいた動きがあったという。細部まで説明するのは難しいが、丁寧に地面を押していく動きだとのこと。その動きを、川本監督がうまく吉田に伝えることができ、吉田もそれを理解できた。こういった微妙なニュアンスを師弟間で意思伝達することは、一朝一夕でできるようになるものではない。それまでの師弟の6年間のやりとり、積み重ねがあって初めて可能となる類のことだろう。
しかし、その動きが完全にマッチしないまま出場した水戸国際(5/6)の400 mHは58秒75に終わり、大阪国際グランプリ(5/12)の4×400 mRのラップは54秒6にとどまった。大阪では明らかに、疲れがたまっていた。
女子短距離の選抜チームが4月、アメリカに遠征した。吉田は400 mで55秒69と55秒47、4×400 mRでは今回と同じ杉森・柿沼・信岡・吉田のメンバーで3分35秒61の日本歴代2位をマークした。そのときの吉田のラップは53秒2だったという。
大阪の4×400 mRのタイムは3分35秒70。吉田がアメリカと同じ走りができていれば、3分34秒83の日本記録を更新できていた計算になる。他の3選手がきっちり仕事をしただけに、「吉田はかなり悔やんだし、責任を感じていたようだ」と川本監督は大阪のことを振り返るが、「大阪の失敗は、アメリカの疲労を計算できなかった自分のミス」と、教え子をかばった。
その後は東アジア大会に向けての調整が成功し、レース2日前には「疲れも抜け、正確な動作ができるようになった」(川本監督)という。吉田自身「日本記録は嬉しいのですが、日本記録よりも56秒台に入りたいと考えていました。練習の感じから、もうちょっと行けると思っていましたから」と、練習で自信がもてる内容だったことをレース後に明かしている。
吉田は大学卒業後、大学院で2年間、川本研究室に所属した。研究はもちろん「競技をもっとやってみたかった」(吉田)からだ。川本監督も、「この子は4年間で競技生活を終える選手ではない」と、学部時代から認識していた。長期視野に立った師弟は、ハードリングよりも先に、走力をつけることを考えた。
400 mH選手の成長過程を検証すると、2つのパターンがある。男子の例を挙げるなら、山崎一彦や斎藤嘉彦、河村英昭らは中学、あるいは高校時代に110 mMH(110 mH)を経験し、先にハードリングが上手くなってから、400 mHに距離を伸ばしてきた。逆に苅部俊二は、中学時代は中距離の選手で高校になって400 m、そして高校時代の後半から400 mHに取り組み始めた。苅部はアキレス腱が故障がちだったこともあるが、練習ではまったくハードルを跳ばなかったという。
選手というものは、あるいは練習というものは、ひと言で説明できるほど単純ではないし、実際はいろいろなことを組み合わせて練習をしている。上記のようにパターン化して分類することは危険でもあるが、特徴を把握しやすいと思ったので紹介してみた。
川本・吉田師弟は“苅部パターン”を採った。実際、800 mの練習もこなさなければいけなかったので、ハードリング練習に割く時間はなかった。学部生、院生では練習時間も限られてくる。だったら、走力を先につけようという結論になった。大学院進学後は研究室でも、つねに川本監督の薫陶を受ける形になる。先に紹介した“地面を押す動き”の意思伝達も、そういった師弟関係の歴史があればこそ可能になったのである。
さて、“ハードラー”吉田のハードリング技術だが、お世辞にも上手いとはいえない。「基本的にハードリングが下手なんです。走力でカバーしています」と、レース後に吉田が言えば、川本監督は次のようなエピソードを披露してくれた。
ある年、春季サーキットのある試合で、レース前日に吉田がハードリング練習をしていた。女子の400 mHの場合、ハードルの高さは0.762m。ちなみに男子400 mHのハードルの高さは0.914mで、そのサーキット前日の練習の際、男子用のハードルが並ぶように置かれていた。たまたまある男子選手と吉田が同時にハードリングをしたのを見ていた川本監督は、吉田の方がその男子選手よりも高く跳んでいることに気づいたという。それだけ吉田はハードリングでロスが大きいということである。
今後は、ハードル練習を行う可能性もあるという。それが世界選手権に向けてとなるのか、世界選手権後の方針になるのかは、なんとも言えない。
ちなみに、ある男子選手とは山崎一彦だった。男子の中でも特別にハードリングが上手い選手である。
吉田が今後、この種目で目指す方向性を、コメントしている。
「現在は3台目までの16歩を5台目まで伸ばして、前半の遅れを食い止めて、最後の直線で再加速するためにコーナーをリラックスすることです。今はハードリングが下手で走力でカバーしています。ハードリングの跳び方よりも、きっちり自分のレースをすることがだと思っています」
そして、川本監督は次のように言う。
「とりあえず、福島国体のリベンジはできたかなと思います。でも、昨年から日本記録ではなくて、世界へ出ていくためにやってきています。今は800 mを視野に入れず、スピード重視の練習になっています。吉田の練習は600mが中心なんですが、今までは800 mを走れるような600mでしたが、今は400 mと400 mHのための600mです。ただ、人間は生ものですから、練習も味見をしながらやっています。醤油を入れたり具を入れたり――あるときは量を落としますし、今日は少し技術をやろうかって」
さじ加減の妙味を、この師弟は今後も見せてくれそうだ。