2001/1/24
浅利純子が引退会見
マラソン全成績とその特徴


 浅利純子(ダイハツ)が大阪府池田市のダイハツ本社で記者会見し、一線での競技から退くことを表明した。
 浅利は1993年にドイツ・シュツットガルトで行われた世界選手権の金メダリスト。世界選手権・オリンピックを通じて陸上女子初の“世界一”だった。

浅利純子のマラソン全成績
1 1991. 1.27 大阪 12 2.37.01.
2 1992. 1.26 大阪 6 2.28.57.
3 1992. 8.30 北海道 2 2.32.14.
4 1993. 1.31 大阪 1 2.26.26.
5 1993. 8.15 世界選手権 1 2.30.03.
6 1994. 1.30 大阪 3 2.26.10.
7 1995.11.19 東京 1 2.28.46.
8 1996. 7.28 五輪 17 2.34.31.
9 1997. 4.21 ボストン 6 2.31.12.
10 1998. 4.19 ロッテルダム 2 2.26.11.
11 1998.11.15 東京 1 2.28.29.
12 1999. 8.29 世界選手権 16 2.31.39.
13 2000. 1.30 大阪 dnf 途中棄権

 この表からもわかるように、92年8月の北海道から95年11月の東京までの彼女の強さには、目を見張らされる。93年の大阪は、日本最高タイ記録で優勝。そして、95年の東京では、終盤で転倒したハンデを跳ね返しての優勝だった。同時期、ダイハツには藤村信子、吉田光代と、2時間26分台の選手が3人揃っていたが、そのなかでもエース的な存在が浅利だった。
 しかし、96年のアトランタ五輪はマメをつぶしたこともあり17位。昨年の五輪選考レースである大阪国際女子マラソンは、途中棄権だった。
 彼女の強さを支えていたのは、乳酸値を目安とした練習や高地トレーニングなどが挙げられるが、もっとも大きかったのはメンタル面だったかもしれない。何回か谷間を経験しながら、そのたびに強くなって戻ってきた。
 92年のバルセロナ五輪選考会の大阪では後輩でペースメーカー役のはずだった小鴨由水に大敗し、五輪への道を断たれた。93年の大阪で藤村と安部友恵(旭化成)に敗れたあと、1年半以上マラソンから遠ざかった時期もあった。17位に終わったアトランタ五輪からの再起も、注目されすぎないよう、海外を選んだりしている。それだけ、「再起レースは失敗できない」との思いが強かったのだろう。
 ところが昨年の大阪以後は、いくら待っても「再起するぞ」という気持ちが沸き上がってこない。彼女のようなタイプの選手は、そうなったら走ることはできないだろう。