2001/1/2
箱根山中の激戦の裏側を、明らかに!
息詰まる攻防を、選手の心理状態とともに再現!!
98年、そして前回2000年と、このところ5区で逆転劇がよく見られる。期待に違わず今年もスリリングなシーンが、“これでもか!”とばかりに演じられ、山登りは箱根駅伝の醍醐味であることを改めて見せつけてくれた。だが、前半から中盤までは思ったほど動きがなかった。それは、嵐の前の静けさというよりも、主旋律に向けての静かな序曲だった。
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予想外だった前半、大村が奥田&藤原と対等の走り
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小田原中継所をトップで飛び出したのは2年連続山登りの法大・大村一(4年)で、29秒後に中継所を出たのは順大・奥田真一郎(3年)だった。小柄でややずんぐりした体型の大村に対し、すらっとした長身の奥田。大村が長野・田川高時代からトラックやインカレでの活躍はないのに対し、奥田は高校駅伝の名門・西脇工高のエースとして、全国高校駅伝優勝経験もあれば、箱根駅伝での優勝も区間賞も勝ち得たことがある。まさに対照的な2人だった。
だが、差はなかなかつまらない。奥田ばかりか1分10秒後に出た前回区間1位の中大・藤原正和(2年)までもが、大村との差をなかなか詰められない。6.9kmの大平台では、奥田と藤原の2人に対し4秒(奥田と藤原は同タイム)、大村が差を広げていた。それゆえ、大村の走りをテレビでは「ハイペース」と繰り返した。
「自分では意識して飛ばしたつもりはないんですよ。去年のタイム(1時間14分20秒で区間7位)から今回は1時間12分を目標にしていました。確かに向かい風でしたが、そんなに強くは感じませんでしたから、ほぼ設定通りのタイムで入りました」
チーム内では“熱い男”と言われている大村だが、このときの走りに関しては「常に冷静だった」と本人は言う。
追いかける奥田には、ちょっと戸惑いがあった。
「藤原に追いつかれたら一緒に行こうと思っていたら、追いついて来ない。かといって前との差も思ったよりつまらないので、やばいと思っていました」
初めて5区に挑戦する選手、特に上級生になってから初挑戦する選手は、いろいろと考え過ぎてしまうことが多いと聞く。5区はトラックや平地区間とペースが違ってくる。起伏のある場所で練習はしても、5区の勾配は半端じゃない。過去のデータがあるとはいえ、残りの距離を考えたら今の余力でいいのだろうかと、不安がもたげてくる。それに奥田の場合、「この1年間はそんなに調子がよくなかったので、ちょっと前まで弱気になっていた部分があった」のだと言う。
それに対して3番目を走る藤原は、差が詰まっていなくても不安はなかったという。
「風が強かったのでタイムは気にせず走っていました。自分がどんな調子でも3kmまでは抑えるつもりでしたし、10kmまでエンジンのかかりが遅いとは感じていましたが、小涌園からの5kmで落ちてくる人が多いので、焦りはまったくありませんでした」
11.5km地点である箱根小涌園前では、大村は奥田を9秒引き離し、藤原には3秒詰められただけ。つまり、状況は小田原中継所とさほど変わっていなかった。
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奥田に5区出場を決断させた順大の危機
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順大の5区は当初、奥田と同じ3年生の野口英盛が走る予定だったが、その野口がなかなか調子が上がらない。チーム内には、「だったら5区は奥田しかいない」という雰囲気があった。だが、さきほど紹介したように、奥田もこの1年間の自分の成績を考えると「やります」と、簡単に言い出せなかった。奥田が決心したのは12月23日だったという。母校・西脇工高の渡辺公二監督に電話をして「弱気になったらダメだ」とアドバイスされたことで踏ん切ることができた。
実は、11月下旬から順大のチーム状況は最悪だった。翌日のレース終了後、そのあたりの事情を沢木啓祐監督は次のように明かした。
「主力にケガ人や病人が続出して、1973年に指導に携わって以来、チーム状況は今回が一番ガタガタでした。全日本大学駅伝(優勝)のあとの走り込み合宿(大島)で、ハイレベルなトレーニングが消化できましたが、休養することをどうしても忘れがちになっていたようです」
順大はこの冬の駅伝シーズン、10月の出雲全日本選抜大学駅伝、11月の全日本大学駅伝と連勝。箱根に勝てば学生3大駅伝制覇となり、実現すれば10年前の大東大以来の快挙となる。日本インカレと合わせれば4冠で、知らず知らずのうちに練習に力が入ってしまっていた。
「11月17日に岩水(3年・2区)が肺気胸で10日間の安静を余儀なくされ、11月末には宮崎(4年・10区)、謙介(4年・9区)、野口(3年・4区)が原因不明の下痢になり、最も症状のひどかった野口は3日間入院しました。坂井(3年・7区)は走り過ぎから膝蓋骨周辺を痛め、宮井は坐骨神経痛と肉離れの後遺症。特に野口は、回復後に練習を始めましたがツケが出て、12月中旬には貧血で全然タイムが上がりませんでした」
そんななか、沢木監督は「野口次第」という言葉を口にしていたようだが、奥田が自ら言い出すような雰囲気作りをしていた。最終的には選手自身が判断し、言い出すまで待っていた。
「12月27日に本人が『5区をやります』と言ってきた」(沢木監督)
区間エントリー提出締め切りの2日前だった。
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藤原が「区間記録更新」を口にできるようになるまで
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中大・藤原は西脇工高出身、順大・奥田の1学年後輩だった。奥田が3年生だった1997年12月の全国高校駅伝。奥田はチームのエースで1区。藤原はメンバーにも名を連ねていなかった。
「高2の時は県内の地区大会で疲労骨折して、その後はメンバーに入れず悔しい思いをしました。インターハイ路線も2年では出ていませんし、同じレースを走ったことはないと思います」
3年生になっても、5000mでは西脇工高の代表3人に入れず、インターハイは3000mSCで出場。インターハイ本番で西脇工高はエースの中尾栄二(現早大)以下5000mで3人が入賞。藤原も3000mSCで3位に入ったが、注目度は5000mトリオの方が高かった。全国高校駅伝でも西脇工高は連覇を成し遂げたが、藤原は2つある最短区間のうちの1つ、2区だった。チームとしての戦略もあるので「2区=弱い選手」とは必ずしも言えないわけだが…。
ちなみに、その前年(1997年)、西脇工高エースの奥田は5000mで4位。翌99年は藤井周一が5000m2位。「西脇工高のエース=インターハイ5000mで入賞」は、近年の常識だった。藤原は中大に進むとき、奥田は1年生ですでに箱根駅伝優勝を経験していた。当時の藤原は「奥田さんに1回くらい勝てたらいいな」くらいの気持ちだったという。そのくらいの差がその頃はあった。
だが、藤原は前回の箱根駅伝で1年生ながら、5区で区間賞の快走。チームを8位から4位に引き上げた。2000年2月には千葉国際クロカン・ジュニア8000mの部で後輩の藤井を抑えてトップとなり、世界クロカン選手権でも14位と好走した。そして、トラックでは1万mで関東インカレ4位、日本インカレ8位、そして12月頭の記録会で28分17秒38のジュニア日本記録まで樹立。
箱根駅伝を前にして「区間記録更新」を口にできる立場になっていた。
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気力がぶつかりあった三者のデッドヒート
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話をレースに戻そう。11.5kmの箱根小涌園前もトップを快走していた法大・大村は、トップを走る気持ちを堪能していた。
「去年、法政は4区の途中までトップだったんですが、その4人はどんな気持ちだったんだろうと、ずっと知りたかったんです。一度は味わってみたいと。あっ、こういう感じなんだって、わかりましたよ」
しかし、藤原が予想したように、小涌園を過ぎて、徐々に大村と順大・奥田、中大・藤原との差は詰まりだしていた。大村の1万mの記録は30分21秒。5区の出場選手の中では最低のタイムなのだ。一気に差が詰まると思われたが、なかなか詰まらない。国道1号線最高地点の直前に、いったん下りから平坦になる部分がある。そこはほぼ一直線。藤原が奥田との差を詰めていたこともあり、3チームが30〜40m間隔で縦に並んだ形となった。
「大会前に考えていた僕自身のテーマは、“勝つこと”でした。これまで僕は“抜かれなかったことがない”選手でしたが、今回は絶対に抜かれないように、前に人がいれば抜いて“勝つレース”をしたいと思っていました」
格上の2人に対し大村が一歩も引かなかったことで、レースは緊迫感に満ちた。
奥田が大村に追いついたのは16.6km、最高点を過ぎて下りに入って間もなくだった。200 mほど大村の後ろにいた奥田が、大村の前に出る。
予想外のことが起こったのは、それから10〜20秒後だった。そのまま後退すると思われた大村がスパートして奥田の前に出たのだ。
「上り切った時点でもう余力がなかったので、勝負するのなら早めに仕掛けないと思っていました。だから、あそこでしか勝負ができなかった」
17km手前から徐々にリードを広げ、法大と順大の差は最大で30m以上になっただろうか。そのとき、奥田は寒さを呪っていた。
「下りに入ったら風がすごくて、身体が冷えて動かなくなりました。無理矢理動かすと、脚がつりそうな感じでした。つってしまったら全てが終わってしまうので、まずはゴールまで行くことを優先するしかありません。心のどこかに、往路優勝という気持ちもあったのですが…。元々、下りは得意じゃないので、平地に入ってからなんとかしようと思っていました」
その予想は当たった。奥田と大村の差が詰まりだした。だが、それよりも、後方の藤原が奥田に追いついてきた。奥田が大村をとらえるより早く、藤原が奥田の前に出た。19.2kmの大鳥居の手前だった。その直後(19.3km)に、藤原は大村を抜き去った。さすがの大村も、この時点で付いていく余力はなかった。だが、奥田には高校の先輩の意地があった。脚は言うことを聞いてくれないが…。
「気合いで付きました」
と、奥田が食い下がり、さらには、19.4kmで奥田が前に出る場面もあった。
「負けるかな」
一瞬、藤原は思ったが、200 mほどして藤原が前に出ると、奥田も付くことができなかった。
「後輩に置いていかれるわけにはいきませんでしたから、気合いで付きましたが、脚が限界でした」
こうして中大が37年ぶりの往路優勝を果たしたが、奥田も8秒差で粘り、往路の1、2位は箱根駅伝史上最僅差のフィニッシュとなった。大村は最後の1.5kmで藤原に55秒離されたが「実力です」と悪びれなかった。
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山登りの醍醐味
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早大の山登りで勇名を馳せ、この日はラジオ解説車に乗った金哲彦リクルート監督は、今回のレースと5区を、次のように解説してくれた。
「記録的には向かい風の影響でよくありませんでしたが、100 mの距離に3人が並んできて興奮させられました。5区は箱根駅伝の醍醐味中の醍醐味ですね。大村君はよく粘りました。法政の意地を見せつけられた思いです。奥田君と藤原君の最後のデッドヒートは、『うちのチームは明日が強いから』という順大と、『ここは俺の区間』と思っている藤原君の差が出たのかもしれません。
5区をうまく走るには、まず上半身をうまく使って(身体全体を)引き上げること、そして登り切ってから下りへの切り換えをいかに上手くするか。1km3分40秒のペースを2分40秒にしないといけないわけですから。
走り方としては最初の3kmはうまく抑え、その後本格的な登りですが、登りにも急なものとなだらかなものがあって、その切り換えが要求されます。そのあたりは藤原君が上手かったですね。なだらかな登りでグーッと詰めて来るんです。1時間9分台を出すと豪語していただけのことはあります。中大は4区までの選手も、5区に絶対的な選手がいるからと、安心感を持って走れたでしょう。
上り下りだけ専門の練習をすることはありません。それよりも意識やテクニックです。走法的にはピョンピョン跳ねる走り方よりも、這うように腿で押していく選手の方がいい。そして苦しいところで耐えていけるメンタル的なタフさでしょう」
奥田の敗因は、金監督の分析と違って実際にはメンタル面よりもフィジカル的なものだった。だが、今回の5区はまさに、箱根駅伝の醍醐味を余すところなく見せてくれた。そして、区間賞は藤原を抑えて拓大の3年生、杉山裕太が獲得した。来年に向けて、ドラマの種を残して77回大会の5区は幕を閉じた。