2001/7/4
為末、ローザンヌGPで48秒38の自己新
完全に世界の一員に
ゴールデンリーグ3位、GPU優勝に続きGPTでも3位
過去の主要レースの5台目通過タイム比較
為末大(法大)が完全に“世界の仲間入り”を果たした。
ローザンヌでは7レーン。8レーンだったローマと同じ、外側から2つめだ。ローザンヌの競技場は観客席との距離が、ローマに比べると格段に近い。8レーンになると、広告の看板に近すぎて走りにくいほどだ。
99年にこの競技場の8レーンを経験した伊東浩司は、その年のセビリア世界選手権200 m準決勝でまずまずの走りができた際「ローザンヌの8レーンを経験していたから、ここでもビビらずに走れた」と話している。セビリアでは、カメラマンがちょうど伊東の視界から、同じ組のモーリス・グリーン(アメリカ)を狙ったりしていたのだ。
「外側の方が気持ちいいですよ。バックストレートの観客が(僕がトップを走っていると)騒いでいましたからね。出してやろうって思いますよ。(観客に)近いし、多いし、騒ぐし、ホント、面白いです」(為末)
5台目の通過は21秒2。為末のこれまでの主な試合の5台目の通過タイムは以下の通り。
1996年10月 広島国体 21秒5 49秒09
2000年5月 静岡国際 21秒3 49秒01
2000年9月 スーパー陸上 21秒1 48秒47
2000年9月 シドニー五輪 20秒9 61秒81
2001年6月 日本選手権 21秒2 48秒66
2001年6月 ローマGL 21秒1 48秒78
2001年7月 ローザンヌGPT 21秒2 48秒38
風向き、風の強さで0.3〜0.5秒は違ってくるので、一概にどのレースが一番飛ばしたとはいえないが、昨年から為末は、5台目を21秒そこそこでぶっとばすレースパターンを試みている。
それがシドニー五輪で完成するはずだったが、ホームストレートの向かい風と、「心に余裕がなかったこと」(為末)、つまり精神的な力みで失速し、9台目では脚が動かなくなってハードルを引っかけて転倒してしまった。
「オリンピックという大会だけでなく、4年間かけてやってきたことが、たった1つのレースで台無しになってしまった。かなりショックでやる気が戻らなかった」
レースパターンもどうするか、迷いが生じたのだろう。前半をぶっ飛ばすパターンがいいのかどうか。だが、今年の日本選手権を同じパターンでセカンド記録(当時)で制し、レースパターンには自信を深めた。
ローマでもそうだったがローザンヌでも、世界の強豪を従えて8台目まではトップ。実はザグレブだではレースパターンをちょっと変えて前半を抑えたこともあり、10台目まではフェリックス・サンチェス(ドミニカ)がリードしていた。
「8台目で前にいられたのは、この2年間で初めてです」
だが、10台目を超えて逆転。48秒57のセカンド記録(当時)で優勝したが、そのサンチェスがローザンヌではBレース(優勝)。ローマの3位があったから大丈夫だとは思うが、もしもザグレブでサンチェスに負けていたら、為末がBレースに回されていたかもしれない。このあたり、代理人の力関係で決まる部分もあるのでなんともいえないが、ザグレブの優勝がだめ押しとなったことは想像に難くない。パリGLへの出場も、ローザンヌ前日の夜に決まった。
「8台目まで、“世界で一番”の瞬間を味わえたわけですから、気持ちいいですね」
為末が8台目まで従えていたのは、シドニー五輪優勝のA・テイラー(アメリカ)、97年世界選手権優勝者のディアガナ(フランス)、シドニー五輪2位のソマイリー(サウジアラビア)、そしてローマ優勝者のカーター(アメリカ)ら。ベスト記録はディアガナが47秒37(95年とちょっと古いが)、テーラーが47秒50、ソマイリーがアジア記録の47秒53。テイラーとディアガナにはさすがにかわされたが、カーターにはローマの雪辱を果たし、ソマイリーと自己記録47秒94のエリック・トーマスには快勝。そういった試合を、3レース続けたのだから、世界の一員になったと言っていいだろう。
これだけのメンバーの中でトップを快走するのだから当然、アナウンスは「タメスーエ」を連呼(特にローマはすごかった)。ホテルとスタジアムの移動の際に乗るシャトルバスの中でも、「タメスーエ」と話題にしてる会話を、2度ほど耳にした。
「できれば日本記録を出したかったです。記録が出やすいトラックだと聞いていましたし。ザグレブに出なければ、48秒2台が出ていましたね。背中もケツも、朝起きるのがつらいくらい疲れがたまっています。世界ジュニア(96年シドニー、400 m4位、4×400 mR2位)もマイルの決勝が5本目でしたが、今回は全部全力ですからね。広島国体(96年400 m45秒94、400 mH49秒09でともに当時のジュニア日本記録、現在もともに高校記録)も本気は2本だけでした。これだけ全力を短期間にこなすのは初めてです。パリも入れれば8日間で4本ですから。でも、面白いですね。試合もですけど、試合以外も。ケニアの長距離の奴と仲良くなって、会うたびにいろいろと話しています。名前は知らないんですが、“ジャンボ”って呼んでいます」
疲労は本当にピークのようで、果たしてパリで走れるのかどうか、為末自身もわからないというのが、実際のところだ。だが、「ゴールデンリーグなら、8番でも出られるものなら出たいし、力も出せると思います」
パリは97年世界室内選手権で、4×400 mRに出ながらバトンを落とした(ロシアの選手と接触して落とされた)苦い思い出の地。シドニーは世界ジュニアのいい思い出から、シドニー五輪の苦い思い出に変わったが、パリはその逆となるかもしれない。